ロップブリ様式の美術は、7〜9世紀頃、チェンラ(真臘)の影響がタイを含む東南アジアに広がってきた事により始まったと考えられます。
元々、真臘は北部の陸真臘(現在のタイ東北部イサーン地方)と南の水真臘(現在のカンボジア・トンレサップ湖地域)が起源で、扶南の勢力下にあったものが、6〜7世紀に扶南をメコン川下流より駆逐して勢力を拡大してきたものです。(尚、扶南もクメール人と言う説もあります。)
タイ東北部・イサーン地方のコラート高原(コラートはタイ語で高原なので変ですが、ナコンラチャシマやイサーン南部の事)では真臘王の名が刻まれた碑文やプレアンコール・クメール様式とドバーラバティー様式が混合したブロンズ像が多数出土。
タイ中部でも6世紀末の真臘王バーババルマン一世の碑文が出土しており、チェンラ勢力が当時より勢力を広げていたことが分かります。プレアンコール・クメール様式とドバーラバティー様式が混合したヒンズー神像も出土しており、クメール文化の影響が見られます。
タイ東部でも7世紀前半の真臘王イサーナバルマン一世の碑文が出土しています。
東北部ブリラム県出土の四臂菩薩立像(8ー9世紀):
タイ東北部ナコンラチャシマ県出土の四臂菩薩立像(8ー9世紀):
ブリラム県出土の仏像(8ー9世紀):
9世紀初め(802年頃)に、ジャヤバルマン2世がジャワのシャイレンドラ朝より独立。これがクメール(アンコール)王朝の始まりです。
10〜11世紀にかけてクメール文化はタイ東北部のムーン川流域やタイ東部、そして13世紀にかけてタイ中部、特にロップブリ、更に西部に拡大していきます。
この時代の都市は、アンコール帝国の都市計画や寺院と同じものが見られます。
タイ西部カンチャナブリ県プラサート・ムアン・シン出土の四臂菩薩立像(13世紀):
同(八臂):
ジャヤバルマン7世を表しているとも言われています。表面の細かい仏像は化仏と呼ばれるそうです。
タイ西部ペチャブリ県出土のスーリヤバルマン一世の碑文(1025年銘):
アユタヤ県出土ナーガ上の仏陀坐像(12世紀):
タイ東北部スリン県出土四臂菩薩像(11世紀):
タイ東部サケオ県出土シバ神像(12世紀):
タイ西部ペチャブリ出土ヴィシュヌ神像(7ー8世紀):
ブリラム県出土アプサラ?女神像(10世紀):
ロップブリ出土のアプサラ像(11ー12世紀):
ブリラム出土のリンテル(楣(まぐさ)石)(12世紀):
同(11ー12世紀):
タイ西部ペチャブリ県出土仏像(12ー13世紀):
ロップブリ時代の最終期(13〜14世紀)
アンコールのプレアカーン寺院にはジャヤバルマン7世(12世紀終〜13世紀前半)の碑文があり、タイ東北部〜東部〜中部〜西部各地に仏像を寄進した事が記され、タイ国内への支配を強めた事が分かります。
そう言えば、彼の石像はラオスのビエンチャンやルアンパバーンの寺院にもありました。
しかし彼の死後、アンコール帝国は急速に弱体化して、これらの地域は独立状態(チャオプラヤ川中ー下流域の諸都市・スコタイ・ランナー・ランサーン王国)となり、更にアユタヤ王朝へと繋がっていきます。(アユタヤ時代の寺院にもクメール様式の影響が見られます。)
ロップブリ県出土仏像(13ー14世紀):
アユタヤ県出土仏像(13ー14世紀):
カンボジア本国のものと比べると見劣りしますが、タイ東北部〜南ラオスには結構見応えあるクメール遺跡が幾つかあります。
⭐︎ナコンラチャシマ県 プラサート・ピマーイ
⭐︎ブリラム県 プラサート・パノム・ルン
⭐︎同 ムアン・タム
⭐︎シーサケット県 カオ・プラ・ヴィハーン
(プリヤ・ヴィヒヤ) アクセスはタイから、寺院自体 はカンボジア側。
⭐︎南ラオス チャンパサック県 ワット・プー
等が主要な遺跡です。
(続く)
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