(前回より続く)

今回、ラオスで最も楽しみにしていた「ジャール平原」に向かいます。

ラオスで、ルアンパバーン、南部のクメール遺跡・ワットプーと共にラオスの三つの世界遺産の一つです。


ジャール平原ラーオ語ທົ່ງໄຫຫິນ英語Plain of Jars)は、ラオス中部のシエンクワーン県アンナン山脈の北端に位置するシエンクワーン台地英語版に大量の石壺(Stone Jars)が散らばって埋められている歴史文化的な場所、あるいはシエンクワーン台地そのものを意味する。石壺はシエンクワーン台地を中心に400箇所以上で確認されている。(ウィキより)


ビエンチャンから国内線で、シエンクーワーンに向かいます。


不思議な事に、国内線なのにイミグレのカウンターがあって、パスポートチェックがあります。ターミナル間違えたかと、一旦後戻りする始末。一応共産政権なので、外国人の移動はチェックするという事でしょう。


前日のルアンパバーン空港でもありましたが、ビエンチャン到着時はありませんでした。


写真(↓)ではもう着いたように見えますが、ここはまだ首都ビエンチャンの国際空港です。




満席




シエンクワーンが見えてきました。




 


これがターミナル





ここでもイミグレのチェックがありますが、カウンターがあるだけなので、知らずに出頭しなくても止められる事はありません。(出国時に問題になるのか?)


ちなみに出発時にもカウンターでチェック受ける必要あります。




ターミナル内部






標高1200メートルで、空が広く見えます。午後3時で気温26度。快適です。




市の中心部にあるレストラン。不発弾が入り口に飾られています。




ここ、シエンクワーン高原は、ベトナム戦争/(ラオス内戦)時のホーチミンルートが通る交通/戦略上の要衝であったため激しい戦闘/空爆を受けた土地です。1964-73年の9年間に平均8分に一回空爆を受けているそうです。





クラスター爆弾







シエンクワーン高原の中心地市/ポンサワンの市街地。


埃舞い散る荒涼とした街。道だけやけに広く見るべきものもありません。コンビニすらない。


ベトナム・ビンからの国際バスが通りました。国境まで90km/3時間との事。





今日の夕食は、当地の名産と言うフォー。

ベトナム語の表記もあります。








宿は日本人の共同経営のホテル。ポツンと一軒家っぽい。(ここに投資するには相当な勇気が要ります。)









朝はあちこちからニワトリの鳴き声。


翌日、先ず朝市へ。(本当は一刻も早く遺跡に行きたいのですが…。)


しかし、意外に大きい。ポンサワンは人口20万人だそうです。






イタチの様な動物(ハリネズミはアジアにはいません?)も結構売られていました。




メダカよりちょっと大きい小魚。辛いソースつけて踊り食いするそうです。




(なんとかの鶴)




名産のビーフン。量が半端じゃない。






池の向こうに放送局。



中学生時代、BCLと言う海外の放送局を聴く趣味が一時期流行った事があって、私も夢中になりました。


ここシエンクワーンの地方局の短波放送は当時日本でも比較的良好に受信できました。


今回、この放送局のアナウンスで分からなかった部分(何故か今でも意味わからないのに諳んじることできる)をガイドさんに聞いてもらって、やっと全文が判明しました。


「こちらはシエンクワーンの声放送局です。」と言う事でした。


アナウンスと共に流れるメロディーが如何にも共産主義と言う調子だったので、ラオス愛国戦線(パテート・ラオ)側の放送局という事は分かっていたのですが、この名称から、まだ内戦終結前のものだった事が分かりました。


こんなところからはるばる日本まで電波が届いていたとは、ちょっとだけ感激しました。



さてジャール平原です。


今日は、サイト1、2、3を順に周ります。


実はシエンクワーン高原には現時点で90ヶ所以上のジャーサイトが発見されていて、その内15ヶ所(1,325個のジャー)が世界遺産に含まれています。







サイト1/グループ1

小高い丘の上にあり石壺も他より大きい。




爆弾でできたクレーター




王の石壺と呼ばれる最大のジャー。半径2m、重量10トン。








塹壕跡




サイト1/グループ2


ここはグループ1の丘の麓に位置し、ジャーもグループ1より小さく、グループ1と2で身分が異なっていたと考えられています。



ジャーの周辺から人骨や副葬品が出土しています。




このジャーの側面に人の形が彫られています。他には例がないそうです。





サイト1/グループ3


丘の上に数個のジャー。


草が刈られている場所は不発弾がクリアされていますが、草が生えているところはまだクリアされていません。立ち入り禁止の看板はありませんが…。




洞窟



この洞窟からは火葬された人骨や墨が出土。天井に穴。





発掘調査の結果、石壺は遺体を長い期間置いておいて、ほぼ骨になってから洞窟で火葬にして、遺灰を石壺の周りに二次埋葬したと推測されています。(諸説あり)




サイト2




ここも小高い丘の上ですが、爆撃を受けてないので、サイト1とは違って木々に覆われています。



細長く外側が四角っぽい形状。








石の蓋が幾つかあるところも特徴。




壺の中から木が生えて壺が壊れたもの。




この石蓋には人型が彫られています。これも珍しいと。








風も通り景色も良く気持ちいいところです。







サイト3


ここは途中畑や田んぼの畦道を、農村風景の中をしばらく歩きます。











イタリア人の女の子が焦って逃げて来たので、何かと思ったら細い畦道で水牛の群れとばったり遭遇。










ここのジャーは小ぶり。









サイト3は地味で、どちらかというと農村風景を楽しむ趣向ですね。


ジャーは砂岩/礫岩/花崗岩でできていて、砂岩の石切場はサイト1から20km離れています。そこでは、切り出されたばかりのものからある程度加工が進んだものまで見られるとの事。


数トン-10トンもある石壺を20km運搬するのは仮にゾウをたくさん使っても大変な労力だったと思われます。


二次埋葬の為にそこまで労力と時間をかける、風習/信仰とはなんだったのか不思議です。地位の低い人も石壺は小さいものの同じような事をしていた事や、その割には二次埋葬が簡単で副葬品もまだほとんど発見されて無いことも不思議です。


この石壺はラオス以外も、中国南部、ベトナム、タイ、カンボジア、インドネシア、インド・アッサム地方にも少しあるとの事。インドネシア以外は広義のタイ族の分布とほぼ一致します。(但し、壺ではなく石柱の事ではないかという気もしますが。)


埋葬に関連するという説が最も有力ですが、やはり謎多い遺跡です。





この地域の農村は各戸農地も広く牛/水牛も多く、乾季なのに灌漑されていて豊かな様子、新築ブームでした。






最後にシエンクワーン県博物館に寄りました。




残念ながら、出土品の展示は僅か。


骨が入っていた壺(↓)と地味な副葬品が少々。




地元少数民族のアクセサリーや衣装/織物他。























空港で唯一のカフェ?




予定通りビエンチャンに帰りました。



今回一泊二日で、見たいサイトと博物館を訪問できたので、スケジュール的にはバッチリでした。


2泊すれば、ジャーを作っていた石切場やこの地域に14-18世紀に存在していた小国の遺跡に行くことはできますが、2泊してまで行く価値あるかは?です。




(続く)