インドグリーク1:概説
今回から、インドグリークのコインの紹介となります。以前紹介した一連のグレコバクトリア王国の続きです。
インドグリーク諸王については、メナンドロスI世を除いて、コイン以外の史料がほとんど存在しません。また、「諸王」と書いたように、コインの銘に記されている王も30-40人ぐらいで、アポロドトスI世、メナンドロスI世の後は、いくつかの地域に分立状態となります。専門家によって意見もバラバラで、私も何をどう書いてよいのか全くお手上げ状態です。
グレコバクトリア王国とインドグリーク諸王国を、どの王で区切るのかさえ、諸説バラバラな有様です。
以前にも触れましたが、ギリシャ系の王国で、地理的にヒンズークシ山脈の北側の領域を主としているものを、グレコバクトリア王国、また、南側を主とした領域としているものを、インドグリーク王国(諸王国)と呼びますが、必ずしも、二つの異なる王国がヒンズークシ山脈の南北に並立していたという事ではありません。
特に初期は、バクトリア地方を本拠地としたグレコバクトリア王国が、ヒンズークシ山脈を越えて南側の「インド」地域に支配地域を広げっていった為、一人のグレコバクトリア王が、ヒンズークシ山脈の両側を支配していたという形です。
ヒンズークシ山脈は非常に峻険な山脈だそうです。7世紀の玄奘も、ヒンズークシ山脈を越えるのに非常に難渋したと「大唐西域記」に記録されています。
現在も大まかにいうとヒンズークシの北側はタジク人、山中はモンゴル帝国の末裔のハザーラ人、南はパキスタンと同じパシュトゥーン人と分布が分かれているのはこの地理的な環境の為だと思われます。
話はそれますが、私も一度シンガポールからフランクフルトへのフライトでアフガニスタン上空を飛びましたが、深く大きな峡谷が貫く険しい山塊に驚くとともに、当時、米軍・NATO軍がタリバンと戦っている時代でしたが、軍事的な成功は収められないだろうとも感じたものです。山上の小屋が識別できる程の高度だったので、対ソ戦時代にムジャヒディンに供与されたスティンガーで撃ち落とされたらどうしようと思ったほどです。(最近のロシアのウクライナ侵攻で、このスティンガーが活躍しているそうですが、射程は長くないので、当時は取り越し苦労だったことが今更ながら分かりました。SQだったので、ウクライナで親ロ派に撃墜されたMHみたいなことはないとは思っていましたが…。)
ヒンズークシ山脈の両側は地理的・文化的に分断されているため、時代が下るに従って、ヒンズークシ山脈の北側と南側で異なる王銘のコインが出土するようになります。そのあたりからははっきりインドグリークと区別できるようになります。
詳しい専門家が書かれたように思われますが、ちょうどウィキに全体的に良くまとまった解説がありましたので、コピペします。素人がグダグダ書くよりこちらの方がすっきりします。(コインコレクターとしてはデメトリオスII世の部分が今一つぴんと来ないのですが、それは後述します。)結構長いですが、ご興味のある方は暇つぶしにでもどうぞ:
以下、ウィキペディア(インド・グリーク朝 - Wikipedia)より:
インド・グリーク朝(英語:Indo-Greek Kingdoms)は、紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃までの間に主にインド亜大陸北西部に勢力を持ったギリシア人の諸王国の総称である。この地域におけるギリシア人はアレクサンドロス大王の時代より存在したが、有力勢力として台頭するのはグレコ・バクトリア王国の王デメトリオス1世によるインド侵入以降である。一般にこの時期以降のインドにおけるギリシア人王国がインド・グリーク朝と呼ばれる。サカ人など他勢力の拡大につれてインド・ギリシア系の王国は姿を消したが、彼らの文化はインドに多くの影響を残した。
アレクサンドロス大王
ギリシア人がいつ頃インド亜大陸に居住を開始したのかは不明である。アケメネス朝が紀元前6世紀末頃から紀元前5世紀初頭にかけてインダス川流域まで到達して以降に、アケメネス朝の手によってギリシア人がこの地域に移住させられた可能性はある(少なくとも中央アジア・バクトリア方面にはアケメネス朝時代に移住したギリシア人が存在したことが確認されている)が、記録が少なくはっきりとはしない)。インド亜大陸におけるギリシア人の活動を示す記録が増大するのはアレクサンドロス大王率いるマケドニア軍がインダス川流域に侵入して以降のことである。
アレクサンドロス大王がペルシア遠征を行っていた頃、北西インドにおけるアケメネス朝の統制力は大幅に弱まっており無数の群小王国が成立していた。ギリシア人の記録によればその数は20を超えていた。これらの王国はポロスの王国とタクシラ(タクシャシラー)を除けば大国といえるような勢力は無く、相互に争っていた。アレクサンドロス大王の侵入に対してポロス王は抗戦の構えを見せたが、他の諸国の反応はまちまちであった。タクシラ王アーンビはポロスとの敵対関係のために、ただちにアレクサンドロスへの貢納を決めている。戦いの末ポロスはアレクサンドロスに敗れたが、その後も王の地位には留まり、アレクサンドロス大王の宗主権下において王国は存続した。また、いくつかの州ではギリシア人の総督が統治することとなった。
こうして支配者となったアレクサンドロス大王によってバクトリア(現在のアフガニスタン北部を中心とした地域)からインダス川流域にかけての地方にギリシア人都市が多数建設され、まとまった数のギリシア人が移住するに至った。紀元前4世紀末頃、これらの地域にセレウコス朝を開いたセレウコス1世がその支配権を獲得すべく遠征を行ったが、北西インド地方ではチャンドラグプタ王の建てたマウリヤ朝がセレウコス朝を圧倒し、その支配権を確保した。このため、北西インドに移住したギリシア人は、その後マウリヤ朝の支配下に入ることとなる。
マウリヤ朝治下のギリシア人
マウリヤ朝の勢力範囲内にギリシア人がいたことは、アショーカ王の残した詔勅碑文に辺境の住民としてカンボージャ人やガンダーラ人とともにギリシア人が言及されていることから確認できる。サウラシュートラ半島(カーティヤワール半島、現:インド領グジャラート州)では、マウリヤ朝の覇権の下でトゥーシャスパと呼ばれるギリシア人王が統治していた(トゥーシャスパという名はイラン風であるが、イラン名を持ったギリシア人であると考えられている)。彼はアショーカ王の命令によって水道を敷設したことが記録されている。
彼の他にもギリシア人による小王国が、インド北西部に散在していたことが知られている。これらの王国は土侯としての性格を持ったが、セレウコス朝など西方のヘレニズム王朝と異なり、マウリヤ朝の統制下にあって自立勢力とは言い難いものであった。
グレコ・バクトリア王国の最初の侵入
バクトリアに移住したギリシア人達は紀元前250年頃にディオドトス1世の下で独立の王国を形成した。当初はマウリヤ朝が強勢であったことや、支配権回復を目指すセレウコス朝の攻撃とのためにグレコ・バクトリア王国がインドに影響を及ぼす事は少なかったが、紀元前200年に入るとインド方面への拡大を開始した。その端緒となったのはグレコ・バクトリア王国の4番目の王デメトリオス1世によるアラコシア征服である。彼はアラコシアにデメトリアードという名の都市を築くと、更にヒンドゥークシュ山脈を越えてパロパミソスを征服した。
デメトリオス1世に続いて、その弟アンティマコス1世(在位:紀元前190年 - 180年頃)の治世に入ると、インドにおけるマウリヤ朝の衰勢に乗じて更にインド方面へ勢力を拡大し、タクシラを占領してガンダーラ地方を征服した。
デメトリオス2世からインド・グリーク朝へ
アンティマコス1世の甥、パンタレオンやアガトクレスなどの内紛の後に(一説には内紛が続く中で)王となったデメトリオス2世(在位紀元前150-145年)の頃にはインドでは大きな政治的空白が生まれていた。紀元前180年頃にマウリヤ朝の将軍であったプシャミトラは、マウリヤ朝最後の王ブリハドラタを殺害して新王朝シュンガ朝を建て、中央インドでは新たにヴィダルパ国が成立し、カリンガ国(チェーティ朝)などマウリヤ朝の下でマガダ国に征服された諸国も自立していた。
こういった状況のもとでデメトリオス2世はインドで大規模な征服活動を行ったと言われている。デメトリオス2世が支配した領域は学者によって見解がことなり正確なことはわかっていない。この時代のインドの文献にはマトゥラーなどガンジス川中流域の都市がギリシア人に包囲されたと記録するものがある。シュンガ朝やチェーティ朝との間で戦闘が行われたと考えられるが詳細はよくわかっていない。
デメトリオス2世の行動に言及していると思われるインドの記録として、チェーティ朝の王カーラヴェーラの治世第8年の碑文がある。
「カーラヴェーラ王の治世第8年、彼は大軍を持ってゴラダギリを攻略しラージャグリハ(王舎城)に迫った。彼の勇敢な所業の報せを耳にしたヤヴァナ王ディミタは、自らの軍を危険から逃すべくマトゥラーに退いた。」
また、『ガールギー・サンヒター』と呼ばれる天文書の中にダルマミータ王がパータリプトラに進軍したとの記録があるが、このダルマミータはデメトリオス2世のことであるとする説がある。(ただし「ディミタ」や「ダルマミータ」が本当に「デメトリオス2世」のことであるかどうか、断言はできない。)
ともかくも、デメトリオス2世が熱心な征服活動をインド北西部からガンジス川流域にかけての地域で行っていたのは確実である。しかし、こうした中でグレコ・バクトリア本国では紀元前175年頃(年代には異説が多い)、エウクラティデス1世が反乱を起こし、支配権を握るという事件が発生した。このためデメトリオス2世は6万の兵を持ってエウクラティデス1世を討伐に向かった。エウクラティデス1世は僅か300人の手勢しか持っていなかったが、パルティアに領土の一部を割譲することで全面的な支援を獲得し、デメトリオス2世を撃退して紀元前171年頃に自ら王位についた(エウクラティデス朝)。そしてデメトリオス2世が征服したインド側領土の大部分を含む地方の支配権を得たが、バクトリア本国への帰還途中に息子に暗殺されたためにインド地方の支配権は大部分が失われた。
この結果インド亜大陸及びその周辺におけるギリシア人の勢力はエウクラティデス1世の後継者によるバクトリア部分と、デメトリオス2世が征服した領域を基盤とするインド部分とに大きく分かれた。一般にこの分裂したギリシア人勢力のうちインド部分に支配権を持った諸王国がインド・グリーク朝と呼ばれる。
デメトリオス2世のインドにおける勢力基盤を継承したのは恐らくアポロドトス1世であった。この根拠となるのがデメトリオス2世の発行したコインとアポロドトス1世の発行したコインが同種の物であり、ほぼ同じ年代に属すると考えられることである(ただしアポロドトス1世がデメトリオス2世の父であるとする説もある。その他の説も多く正確にはわかっていない。)。アポロドトス1世はコインの分布からインダス川両岸地方からアラコシア(現:アフガニスタン南部)に至る地域に勢力を持っていたと推定されている。
メナンドロス1世
インド・グリーク朝の王の中で最大の勢力を築き、また最も多くの記録を残しているのはメナンドロス1世(ミリンダ 在位:紀元前150年頃 - 紀130年頃?)である。メナンドロス1世はインドにおいてエウティデムス朝系の権力に対する反対者として台頭したという説が近年では有力であるが、彼が権力を得た具体的な経過はわかっていない。
メナンドロス1世は北西インドの都市シャーカラ(現:シアールコット)を都とした。古代の地理学者プトレマイオスによれば、当時この町はエウテュメディアと呼ばれたという。メナンドロス1世の発行したコインは他のインド・グリーク王の誰よりも広い範囲から出土している。その範囲は現在のカーブルからバルチ、カシミール、マトゥラーに至る。
プトレマイオスの世界地図、アジア詳細図
同じく地理学者プトレマイオスによって造られた世界地図によればインド亜大陸にはメナンドロス山などと名づけられた山が存在していたらしい(中央右下がりの肌色部分)。こうしてインド亜大陸に勢力を拡張した王達、アポロドトス1世やメナンドロス1世はギリシア・ローマの歴史家達にはインド王として言及されている。
メナンドロス1世の名を今日に伝えている最も重要な記録は仏典の1つ『ミリンダ王の問い』である。メナンドロス1世は仏教に帰依したことが知られており、当時のインドでは単に武勇に優れた征服王というだけではなく偉大な哲人王として記憶された。ミリンダとはメナンドロスの名がインド風に訛って伝わった名である。
「彼は論客として近づき難く、打ち勝ち難く、数々の祖師(ティッタカラ)のうちで最上の者であったと言われる。全インド(ジャンブディーパ)のうちに肉体、敏捷、武勇、智慧に関して、ミリンダ王に等しい如何なる人も存在しなかった。彼は富裕であって大いに富み、大いに栄え、無数の兵士と戦車とを持った」
この書はメナンドロス1世と仏僧ナーガセーナとの対談と、王の改宗の顛末などを中心に記録されたものであるが、メナンドロス1世が仏教に帰依したという点には疑問を呈する学者もいる。だが大勢ではやはり仏教を重視したのだろうとする説が有力である。メナンドロス1世はインド・ギリシア人最大の王であり、彼が発行したコインはその後200年以上にわたって北西インドで流通した。これはメナンドロス1世以降暫くの間、彼ほど巨大な経済力を持った王が存在しなかったことを示すともいわれる。
グレコ・バクトリアの終焉とインド・グリークの諸王
メナンドロス1世が死んだ後、王妃アガトクレイアが権力を握ったが、それと同じ時期の紀元前130年頃には大月氏によってか、或いは大月氏の圧力によって移動したトハラ人、サカ人によってか、正確なことはわかっていないが、バクトリアのギリシア人王国はこういった遊牧民の侵入によって崩壊した。(大月氏とは紀元前2世紀に匈奴の膨張に押されてタリム盆地から移動を開始し、紀元前2世紀半ば頃にバクトリアを征服した月氏族の勢力を指す。詳細は月氏の項目を参照。)
紀元前125年頃にグレコ・バクトリア最後の王ヘリオクレスは殺害されたか、もしくは亡命を余儀なくされた。そして残されたバクトリア・ギリシア人達のいくらかはインド・ギリシア人達の勢力範囲に流入した。リュシアス、ゾイロス1世、アンティアルキダスなどのギリシア人王が各地で勢力を持ったが、彼らの多くはこの時期に新たにインドに移動したグレコ・バクトリア系の王であると言われている。彼らは基本的にはエウティデムス朝かエウクラティデス朝に属する王達であったと考えられている。また、メナンドロス1世とアガトクレイアの息子、ストラトン1世も、やや遅れてではあるがインド・ギリシア人の代表的な王として活動したと見られる。
こういった経緯によって、インドにおけるギリシア人の勢力は新たにバクトリアから流入した人々によって形成された西方のアラコシアやパロパミソスを支配する勢力と、恐らくメナンドロス1世の後継者達によると考えられる東方の西パンジャーブ地方などを支配する勢力に大きくわかれた。また更に多くの群小王国が存在したと考えられる。
だが、この時期のインド・グリーク諸王の勢力範囲や年代決定は諸説紛糾しており、極めて僅かな史料を下にその活動が想像されているに過ぎない。それでも上記の王達の場合はまだ記録に恵まれている方である。ニキアス、ポリクセノス、テオフィロスなどのように、発掘されたコインからただ名前のみが知られているインド・グリーク王は約40人にも上るが、彼らについては極めて大雑把な概要さえ知る事ができない。
彼らは相互に覇権を争ったが、紀元前90年以降その勢力は減衰を続けた。西暦1世紀初頭までには支配者としてのギリシア人の地位は完全に失われた。
上記の中で、デメトリオスII世については、他の資料でも同じような記述となっているので、特に異論はありません。しかし、コインの観点からはデメトリオスII世のコインは殆ど市場で見ることはないですし、インド重量単位のコインは皆無だと思われます。インドのガンジス川中下流まで遠征したとか、反乱を起こしたエウクラティデスI世と戦って敗れた等のストーリーとは今一つ整合性がないような気もします。
デメトリオスII世のコインはグレコバクトリア王国のコインで触れていませんでしたが、インドグリークとの関連では重要な王ですので、アーカイブから出てきたものをご参考までに紹介しておきます。
(参考)
Sale: CNG 82, Lot: 773. Estimate $1000. |
BAKTRIA, Greco-Baktrian Kingdom. Demetrios II. Circa 175-170 BC. AR Drachm (3.97 g, 12h). Diademed and draped bust right / Athena standing facing, holding shield and spear; monogram to inner left. Bopearachchi 2A; SNG ANS -; MIG type 102. Near VF, toned, some porosity. Extremely rare, perhaps the third known.
テトラドラクマではなくドラクマ銀貨で、現存3枚との事。
② テトラドラクマ銀貨
Roma Numismatics Ltd > E-Sale 95
Lot number: 486
Auction date: 13 April 2022
Price realized: 2,000 GBP
Greco-Baktrian Kingdom, Demetrios II AR Tetradrachm. Circa 150-145 BC. Diademed and draped bust to right; all within bead-and-reel border / Athena standing facing, holding spear and shield set on ground; BAΣIEΛΩΣ to right, ΔHMHTPIOY and monogram to left. Bopearachchi 1D; Mitchiner 101i; SNG ANS 392; HGC 12, 126. 16.52g, 35mm, 11h.
これはテトラドラクマ銀貨(アテネ重量単位)ですが、価格からすればそれほどレアではないと言えるのかもしれませんが、私個人としてはオークションではあまり見たことはありません。
尚、上記のウィキの説明では、「デメトリオスII世のコインとアポロドトスI世のコインは同種」との記述があります。これについて、アポロドトスI世のコインは次回紹介しますが、二人の王のコインが同種という意味がコインを見る限り良く分かりません。
ウィキに戻り、歴代王のリストです:
歴代王
1. デメトリオス1世(前200年 - 前180年)
2. アンティマコス1世(前180年 - 前165年)
3. パンタレオン(前190年 - 前180年)
4. アガトクレス(前180年 - 前170年)
5. アポロドトス1世(前175年 - 前160年)
6. アンティマコス2世(前160年 - 前155年)
7. デメトリオス2世(前155年 - 前150年)
8. メナンドロス1世(前155/150年 - 前125年)
→パロパミソス・アラコシア政権とガンダーラ・パンジャーブ政権に分裂
パロパミソス・アラコシア政権
1. ゾイロス1世(前130年 - 前120年)
2. リュシアス(前120年 - 前110年)
3. アンティアルキダス(前115年 - 前95年)
4. ポリュクセノス(前100年)
5. ピロクセヌス(前100年 - 前95年)…統一
ガンダーラ・パンジャーブ政権
1. スラソノス(前130年)
2. アガトクレイア(前125年)
3. ストラトン1世(前125年 - 前110年)
4. ヘリオクレス2世(前110年 - 前100年)
5. デメトリオス3世(前100年)
6. ピロクセヌス(前100年 - 前95年)…統一
→パロパミソス政権、アラコシア・ガンダーラ政権、パンジャーブ政権に分裂
パロパミソス政権
1. ディオメデス・ソテル(前95年 - 前90年)
2. テオピロス(前90年)
3. ニキアス(前90年 - 前85年)
4. ヘルマイオス(前90年 - 前70年)
→大月氏へ
アラコシア・ガンダーラ政権
1. アミュンタス・ニカトル(前95年 - 前90年)
2. ペウコラオス(前90年)
3. メナンドロス2世(前90年 - 前85年)
4. アルケビオス(前90年 - 前80年)
o インド・スキタイ王マウエスの統治
5. アルテミドロス(前80年)※ガンダーラのみ
パンジャーブ政権
1. エパンドロス(前100年 - 前95年)
o アルケビオスの統治
o インド・スキタイ王マウエスの統治
2. アポロドトス2世(前85年 - 前65年)
→東西に分裂
西パンジャーブ政権
1. ヒッポストラトス(前65年 - 前55年)
→インド・スキタイ王国へ
東パンジャーブ政権
1. ディオニュソス(前65年 - 前55年)
2. ゾイロス2世(前55年 - 前35年)
3. アポロパネス(前35年 - 前25年)
4. ストラトン2世と3世(前25年 - 紀元10年)
→インド・スキタイ王国へ
長くなりましたが、次回から、アポロドトスI世のコインから紹介していきたいと思います。
(続く)
参考:ウィキ(インド・グリーク朝 - Wikipedia)
CNG, Roma Numismatics Ltd.
注:資料によって王の在位年代は異なりますが、諸説ありどれが正解かは分かりません。従って、各資料内容をそのまま記載していますので、整合性が取れない部分も多々あります。
PS: 本ブログ掲載のコンテンツ(写真・文章等)の無断使用を禁じます。利用ご希望の方は、hirame.hk@gmail.comへご連絡ください。