以前、「マルタバン湾2」で、コインのデザインの西方からの伝播についての説明の中で以下のコインに軽く触れました。今回アラカンのチャンドラ朝の紹介の中でサマタタのコインを紹介しましたが、このコインの紹介を忘れていましたので、今回少し詳しく紹介します。

 

Samatata, 5.69g/20mm, AV stater late 6th century AD. Ref. Mitchiner 2000-55、SEA-225/7

 

表:左向き弓の射手(弓矢を持つ王)立像。右に弓、左に矢。左にトップに大きなほら貝のあるスタンダード(軍旗)。

裏:右向きの女神。天使のような翼に見えますが、マントのような衣服のひだ(ドレープ)をまとっています。右に文字まがいのシンボル。

 

Mitchiner(1988年)によると、この個体は8-10世紀のパーラ朝支配下のサマタタ発行とされています。上記の6世紀というのはオークションでの説明です。多分オークショナー情報がより新しいものだと思いますが、この地域の歴史の情報はあまり多くないので良く分かりません。

 

(サマタタは本来バングラデシュ東南部の地名ですが、しばしば王国名としても使われます。ただし、Michinerの本をよく読むと、インドやアラカンやサマタタ地方独立王国が時代と共に興亡し非常に複雑です。ウィキの情報もまた異なります。サマタタに関する歴史については最後に参考(というより自身への備忘録)として簡単にメモしておきます。)

 

 

今年初めにグプタ朝のコインを入手しましたので、東から西へ、サマタタ→グプタ→クシャンのコインデザインの比較をしてみます。

 

まず、以下のグプタ朝サムドラグプタの金貨(あまり状態良くないですが)と比べると:

 

Samdragupta (AD344-378), AV Stater (Dinar), 7.76g/19mm. Ref. Mitchiner 4773/80

 

表:左向き王の立像、左手にセプター(王笏、王権の象徴の杖)を持ち、右手は火の祭壇に降ろしている。お香でも炊いているのでしょうか?左側にトップがガルーダ又は孔雀のスタンダード(軍旗)。

裏:玉座に座る女神ラクシュミー(ヴィシュヌ神の妻)。

 

この個体は表が王の立像ですが、別のタイプではサマタタと同じ弓矢を持つ王のデザインのものがあります。全体的な雰囲気や、トップがほら貝とガルーダ(又は孔雀)の違いはありますが、軍旗が配されている事、裏面はかなりデザインが異なりますが、女神となっている点は、サマタタ金貨と似ているといえば似ているといえるかもしれません。

 

クシャンとの比較ですが、金貨の手持ちは殆どないので、カニシカ王の以下のものを無理込み使ってみます:

 

Kushan, Kanishka (AD 130-158) AV Stater 7.94g/20mm. Ref. MK35, ANS Kushan 370, Donum Burns 117, Mitchiner 3062 var.

 

表:左向きカニシカ王立像。左手にトライデントを持ち、右手は祭壇に降ろしている。外縁に沿ってギリシャ文字で王銘。

裏:女神ナナ(又は、ナナイア。元々バビロニアの地母神)。右:クシャン朝のタムガ(元々放牧した動物に押した遊牧民の紋章。)、左:ギリシャ文字でNANA

 

王の立像、祭壇に手を降ろしているポーズは、クシャンとグプタ共通です。裏面はクシャン朝後期(AD3世紀以降)になると女神Ardokshoとなりますが、この見た目はグプタ朝のラクシュミーとほぼ同じです。(同じ神のように思われます。今一つ調査不足。)

 

(Ardokshoは東イランに起源をもつ豊穣の女神。仏教では鬼子母神、古代ギリシャではTyche、古代ローマではフォルチュナ神等に変化している。)

 

グプタとカニシカ王の時代のクシャンの比較は、全体的な雰囲気はあまり似ていないように感じますが、共通点はあるといえばありますね。バスデバ2世以降のクシャン後期になるとインド化が進み、よりグプタの金貨に似てくるように思われます。

 

因みに、表が王の像、裏が神、文字のギリシャ語が、ヘレニズム・バクトリア王国コインの影響と考えられます。王の像が全身像となっている以外は西方(王の肖像は頭部又は胸像が主)の影響が強いと感じます。

 

地理的にはこのような位置関係です:

 

 

4世紀のインド亜大陸の諸王朝。グプタ朝の最盛期。クシャン朝はガンダーラ地方(現在のパキスタン北東部)だけの版図に縮小している。サマタタはグプタ朝の最東部の領土となっている。(地理的なサマタタはベンガルデルタのガンジス川より東側です。)

 

出典:ウィキペディア

File:South Asia historical AD375 EN.svg - Wikimedia Commons

 

 

以下は個人的な備忘録です。

 

(参考)サマタタの地理的な位置と諸王朝 (ミッチナーの説をベースに)

 

A.    地理的な位置関係

 

ベンガル湾に注ぐ主要な河川

出典:ウィキペディア

File:Ganges-Brahmaputra-Meghna basins.jpg - Wikimedia Commons

 

現在はガンジス川とブラマプトラ川(ジャムナ川)が合流しパドマ川となり、更にこれに東からメグナ川が合流するのが本流、本流以外にもデルタ内でいくつもの川に分流してベンガル湾にそそぐ。本流が時代と共に移動しており、それに伴って地域の範囲や主要港市も変遷している。古代はガンジス川やブラマプトラ川はメグナ川に合流しその下流の大きな川筋が本流となっていて、地理的・政治上の境界線となり、その沿岸にMainamati等の重要な交易都市が発展したと考えられている。

 

ベンガル湾のデルタ地帯は、地理的には三つに分けられる。地図のメグナ川の東側・ベンガル湾東岸からミャンマー国境までが、サマタタ地方。つまり、現在のバングラデシュ東部、南東部のチッタゴン州、インドのトリプラ州等の地域。中心都市は歴史的には現在のクミッラ(Comilla)近郊のMainamatiやVikrampur(現在のMunshiganji)。Mainamatiには20ほどの寺院や都市遺跡があり、非常に沢山の古代コインが出土している。

 

メグナ川の西岸、現在のカルカッタ付近がバンガ地方(Vanga)。Tamralipti(現在のTamluk)が主要都市(港)。義浄がペルシャ船で到着した港。

 

現在のバングラデシュ北部は、バーイレンドリー(Varendra)地方。後のパーラ朝の本拠地。

 

 

B. サマタタの諸王朝

 

1.6世紀以前

 

マウリヤ朝(BC317-BC180年頃)からグプタ朝((AD340-510年)までは、ほとんどの時期これらの王朝の支配はVarendra地方とVanga地方までで、メグナ川が国境となって、サマタタは独立した小国があった。(マウリヤ朝の一部、グプタ朝の属国となっていた時期もある。)インド北部のその他の地域と同じように、古い時代の銀のパンチマークコイン、クシャン朝の金貨をまねたコイン、グプタ朝のコインが出土している。

 

 

2.Kara朝(6世紀後半-7世紀前半)

 

6世紀には、アラカンとの関係が深くなり、チャンドラ朝と同じデザインのコブウシ・スリバッサ銀貨がKaras朝によって発行されている。王銘はRatanakara、Vangakara,及び・・・kara。(AD575-644年)。

 

 

3.アラカンのチャンドラ朝支配期(7世紀後半)

 

アラカンのチャンドラ朝のダルマビジャヤ王の治世(AD644-680年)に、サマタタはアラカンのチャンドラ朝に征服され同王銘のコインが多数出土している。

 

唐僧玄奘(602年―664年)は唐への陸路での帰路を探索するためにインド東部を旅するが、「大唐西域記」にサマタタを三摩呾吒国として記録している。

 

4.ハリケラ王国・Khadga朝及びDeva朝(7世紀終わり―8世紀)

 

AD680年頃アラカンのチャンドラ朝ダルマビジャヤ王の支配が終わると、サマタタには新たな独立王国としてKhadga朝及びその後継のDeva朝が興り、ハリケラ王国(680年頃から800年頃)と呼ばれた。唐僧義浄(AD635-713年)もインド滞在中にサマタタを訪れ「南海寄帰内法伝」にサマタタの記録を「ありきろ」として残している。ハリケラの銘のある銀貨(アラカンのチャンドラ朝と同じデザイン。前回紹介済み。)と、グプタ朝スタイルの金貨が発行されている。

 

5.パーラ朝支配期(8世紀終わりー9世紀)

 

9世紀になると、サマタタのハリケラ王国(Deva朝)はパーラ朝(8世紀後半から12世紀後半・ベンガルデルタ北部のVarendra地方が発祥地)に征服される。

 

800年の南アジア勢力図

Attribution: Talessman at English Wikipedia

File:Pala Empire, 800 CE.jpg - Wikimedia Commons

 

パーラ朝はダルマパーラ王(770-810年頃)の治世にサマタタを征服したと思われ、次のデーヴァパーラ王(810-850年頃)の治世に最盛期を迎える。サマタタ地方は、Rata家という封建領主がパーラ朝のもとに支配することとなる。 

 

800年の直前にパーラ朝はベンガル地域のVarendra、Gauda及びVanga地方で新しい金貨を発行し流通させたと考えられ、この金貨の一部がサマタタ地方にも流通した。この金貨が今回トップで紹介した「サマタタ金貨」。年代は750年頃から908年としている。(従って、ミッチナーの説ではこれをサマタタ金貨と呼ぶのは誤りでパーラ朝のベンガル地域金貨とでも呼ぶべきかと思われる。)

 

6. チャンドラ朝(10-11世紀中頃)

 

次のナラヤーナパーラ王(855-908年)の治世にパーラ朝は弱体化し、ベンガルデルタ西部のVanda地方がチャンドラ朝(900年頃―1050年頃)として独立する。(このチャンドラ朝とアラカンのチャンドラ朝とは別の王朝と思われる。)サマタタはこのチャンドラ朝によって征服される。

 

この新たなチャンドラ朝は、首都をガンジス本流(メグナ川)の西岸のVikrampurに置くと共に、東岸のMainamatiも宗教と政治の中心として、ガンジス川本流の両岸を抑え、銀交易のブラマプトラ川ルートを支配したと思われ、ハリケラ王国と同じコブウシの上に「ハリケ」又は「ハリケラ」銘があり、薄く大きな片面だけにデザインがあるタイプのコイン(bracteate)を発行している。コインの特徴からはハリケラ王国との何らかの関係があったものと思われる。同時に「サマタタ金貨」の基本デザインを踏襲しているがデザインが抽象化された金貨の発行も行っている。

 

 

7.チョーラ朝の遠征とヒンズー諸王朝(11世紀中頃ー12世紀)

 

1021/23年インド南東部タミール人のチョーラ朝(846年頃ー1279年)のRajendra Chola王の北部遠征軍に敗北し、1050年頃にチャンドラ朝は滅亡。その後ヒンズー教のVarman朝(1050年頃―1150年頃)、Sena朝(1150年頃―1204年)、後期Deva朝(1204年―1300年頃)を経て、イスラム教徒のベンガルスルタン王国の一部となる。(因みに、チョーラ朝はこの後東南アジアへ遠征し、シュリビジャヤの主要港市を攻略する。パレンバンの陥落は1025年。)

 

この時期は、同時にミャンマー中部のペグー朝のAnawrahta王(1044年―1077年)により、アラカンのチャンドラ朝が征服され、サマタタ地方への銀の流入が止まったと思われ、銀貨の発行は行われず、例えば、Sena朝では宝貝が通貨となっている。後期Deva朝はサマタタで、再度「サマタタ金貨」が抽象化された王銘の入った金貨をわずかに発行している。

 

 

支配者が変わっても同じプロトタイプのコインを数百年も使用し続けるというのは不思議な現象。

 

(注)Mitchinerの各コインのアトリビューションは誤りがある(古い情報)可能性あり。

 

参考資料:The History and Coinage of South East Asia untill Fifteenth Century, Michael Mitchiner, 1998

 

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