以前ピューのコインの記事の中で、ピューに続くパガン朝はコインを発行していないとしましたが、ミャンマーのコレクターの本をよく読むと少し違うようです。

 

パガン朝以降(注)は、主として銀のコイン的なインゴッドが従量で使われていたという事でした。その代表的なものがシルバーフラワーマネーといわれるものです。既に他のブロガーさんで紹介されているものですが、製法や表面の模様の意味も詳しく書かれていたので少しだけ紹介します。

 

Flower Silver Money, 44.43g/69mm, ref Htun 286

 

これは、バンコクの骨董屋やコイン屋ではたまに見かけるものです。相当前の話ですが、ウィークエンドマーケットの骨董屋のおやじから、お前のためにとっておいた珍しいものだからと押し売りにあって根負けして買ったものです。なんだかわからない代物ですし、大きくて収納に困るので抵抗したのですが…。上部にアクセサリーとして使った痕跡の穴もあるので、てっきりタイ北部の山岳少数民族の装飾だと思っていました。

 

このタイプのコイン(インゴッド)は、ミャンマーでは”Kyetche-Beche”と呼ばれ、「鶏又は鴨の足」という意味だそうです。花の方が良いネーミングですが、模様を見てなんと思うかの違いですね。(日本人から見ると花紋銀幣、〃餅、〃煎餅という事はないですね。)パガンでは仏塔が意図的または自然災害で破壊されたとき、内部から大量に出てくる事があるそうです。パガンだけでなくほぼミャンマー全土で多数出土するとの事。

 

ミャンマーとタイの国境地帯は少数民族のカレン族やモン族の世界で、彼らにとっての国境は彼らの生活圏の中に勝手に引かれた線にすぎませんから、国境の両側の人やモノの移動は比較的自由ですので、フラワーマネーもタイの北部や東部で容易に入手できたという事だと思います。これがバンコクの市場で売られると、タイの北部で使用されていたお金又は少数民族装飾品という理解になっていったのだと思います。(昨今のミャンマー軍によるカレン族への攻撃に伴う難民のタイへの越境のニュースを見ると、国境は今では管理されているようですね。)

 

パガン朝及びそれ以降の諸王朝が、額面の定まったコインの発行は行わず、銀・銅等を重量に従った価値で商品売買の媒体としていたことは碑文やフラワーマネー等のコイン的インゴッドの存在で明らかですが、何故ピューの時代まで沢山のコインを発行した貨幣経済であったものが、不便な銀等の従量制となったのかの理由ははっきりしません。本の著者であるHtun氏は:

 

①    宗教的な混乱で、宗教的なシンボルが使用されていたコインの発行を行わなかった。ピューの時代は、上座仏教・大乗仏教、密教、ヒンズー教が入り乱れている状態で、特に特異な密教の弊害が多く、パガン朝は密教を弾圧するとともに上座仏教を保護した。確かにピュー時代のコインは宗教的なシンボルが多用されてはいました。

②    重量単位と貨幣単位が同じ単語を使っていて(例えばKyat)混乱するので、重量単位一本として、紛らわしい貨幣の発行をやめた。

 

理由ははっきりしませんが、同時期の東南アジア大陸部(ミャンマー、タイ、カンボジア等)でも同じようにコインの発行がしばらくストップしていたとのことです。

 

実際の売買の手続きは面倒であったと思いますし、少額の売買はどうしたのだろうと疑問は残りますが、ちゃんとした秤があればお金として機能したのだと思います。

 

しかし、金属ですから純度の問題があります。大口の取引では、その場でサンプリングして一部を溶解して純度の確認を行っていたそうです。ずいぶん手間のかかることです。

 

そこで、この花又は鶏の足の模様の登場です。純度が低いとこのような模様が表面に出ない製造方法でフラワーマネーは作られていたとの事。

 

まず、素焼きの型に溶かした銀を入れて、ベースの煎餅型の銀インゴットを作る。そして図のような細いパイプ状の鞴(ふいご)を使って高温の炎を吹き付け、表面を再度溶解させる。銀の純度が高い(90%以上)と表面に花のような文様が残るという事だそうです。

 

(細い鞴のようなものを使って金属表面を溶解する伝統的技法の図)

 

当時分析器もないので必要に迫られて発明された方法だと思いますが、花模様が純度の証明であったとは思いもしませんでした。

 

尚、同じようなものにシャン州やカヤ州、およびタイ北部で出土するピッグマウスマネー(豚口銀幣とでも呼びましょうか?)がありますが、内部が空洞になっていて割れると価値が下がって地金扱いになるとの事です。勝手な想像ですが、純度が高いと割れにくいとかそういう機能があったのかもしれませんね。(Htun氏によるとピューの銀貨は不純物が多いと割れやすいとの事。)

 

結局、アラカン、マルタバン湾、テナセリム地域以外では、パガン朝以降の諸王朝でも、コンバウン朝(1752年―1885年)のボードーパヤ王が1797年に英国製機械打ちの銅貨を発行するまではフラワーマネー等のインゴッドが使用されました。

 

参考資料:Auspicious Symbols and Ancient Coins of Myanmar, Than Htun

 

 

 

(注)パガン朝以降のビルマ諸王朝

 

9世紀にピューの諸国家が雲南の南紹に蹂躙された後、ビルマ中央部にはビルマ族によるパガン朝(1044年―1314年)が興ります。下ビルマは、タトンにタトン王国(4世紀―11世紀)等のモン族の都市国家がマルタバン湾に存在していましたが、パガン朝が1057年に下ビルマを制圧します。パガン朝は現在パガンに見られるように寺院と仏塔の建設・寄進を過剰に行ったために国力が低下し、モンゴルに滅ぼされます。

 

パガン王朝の支配領域(12世紀)

出典:ウィキペディア

Pagan-kingdom - パガン王朝 - Wikipedia

 

パガン朝時代の塼仏

 

 

上ビルマはタイ系のシャン族のピンヤ朝(1312年―1364年)、次いで、アヴァ朝(1364年―1555年)が支配します。ほぼ同時期に下ビルマでは、シャン族・モン族によるペグー朝(1287年―1539年)が興ります。

 

15世紀の東南アジアの勢力図(ピンクのハンタワディがペグー朝)

出典:ウィキペディア

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/ペグー王朝#/media/ファイル:Map-of-southeast-asia_1400_CE.png

 

アヴァ朝時代の塼仏

 

 

1385年から40年間ビルマは内戦状態となり、その勝者としてタウングー朝(1347年―1752年)が頭角を現し、下ビルマのペグー朝を征服し現在のミャンマーの国土ほぼ全域を支配するとともに、隣国のタイのラ-ンナー王国やアユタヤ朝等を屈服させ属国とします。

 

タウングー王朝の支配領域(1572年)

出典:ウィキペディア

File:Map of Taungoo Empire (1580).png - Wikimedia Commons

 

タウングー朝は、16世紀末分裂やアユタヤの侵攻で混乱しますが、復興タウングー朝(1597年―1752年)として息を吹き返します。しかし、1752年に下ビルマのモン族の反乱で滅亡、モン族・シャン族による復興ペグー朝(1740年―1757年)が短期間ミャンマーを支配します。ビルマ族はコンバウン朝(1752年―1886年)が復興ペグー朝を倒しミャンマーを再統一します。

 

コンバウン朝は、現在ラカイン州のアラカン王国(1429年―1785年)、現在のインド東部のマニプールやアッサム地方のアーホーム朝(1226年―1826年)を征服し、西方に拡大しますが、これがイギリスとの直接の衝突を招き、3次にわたる英緬戦争でイギリスに敗れ英領東インドの一部となります。

 

18世紀のコンバウン王朝と周辺諸国(ビルマ王国と記載されている部分)

出典:ウィキペディア

大清帝国領域.PNG (998×847) (wikimedia.org)

 

 

周辺国や、ビルマ族以外のモン族やシャン族も巻き込んだ相当複雑な歴史です。現在のミャンマーも複雑な歴史を反映する部分もあるのでしょうか。昔ジョージブッシュ(だったと思いますが)が、北朝鮮・イラン・シリア・リビア(でしたか?)を「悪の枢軸」と呼びましたが、21世紀は中・ロを中心にイラン等を巻き込んで「新悪の枢軸」が形成されそうですね。ミャンマーが向こう側へ行かないことを祈ります。権威主義的な国家が力を増している状況が、軍部の自信の原因の一つかもしれません。国際情勢の大きな変化のうねりのなかの一つですから、日本もぼんやりしてられないです。

 

 

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