東南アジアの古代コインで一番有名なものの紹介です。

 

 

左が80 ratti (9.20g/33mm. Mitchner SEA #267/ Mahlo #8a.1)、右が20 ratti (2.25g/21mm, Mitchner SEA #323 var./ Mahlo #8c.3.2)

 

東南アジア大陸部(ミャンマー、タイ中部・シャム湾沿岸、カンボジア、ベトナム南部)、更に一部バングラデッシュにかけ広範囲に出土する銀貨で、表面は水(地)平線と上下各6条の光を発する朝日、裏面はスリバッサと呼ばれる吉祥天(インドのヒンズー神ヴィシュヌの神姫ラクシュミ―が原型)の住まいを表す文様と考えられている銀製の古代コインの総称。海のシルクロードの一部であった東南アジア大陸部の貿易で幅広く使用されていたと考えられています。発行年代については3世紀から8世紀迄諸説あり。コインのデザイン及び重量単位はインドの影響を強く受けており、80 ratti (9-10g)が基本単位で、40 ratti (4.4g前後) 、20 ratti (2.4g前後)と10 ratti(1.2g前後)の3種類の少額貨幣と合わせて全部で4種類の銀貨が知られています。ただし、少額貨幣はピュー本土だけで出土し、タイや南部ベトナムでは80 rattiの基本単位ないし、これを二分の一や四分の一に分割したものしか出土していません。40 rattiのものは非常に少なく、10 rattiの出土数もかなり少ないです。

銀の純度は99%以上で非常に純度は高い。(rattiはインドの重量単位で、rattiという植物の実の重量。1rattiは概ね0.12g)

 

扶南の貿易港であったベトナム南部のオケオ遺跡の近代の学術的発掘調査で初めて正式に報告されたために、一般的に扶南旭日銀貨と呼ばれ扶南の名が冠されていますが、その後の出土分布、小額貨幣の出土状況、古代の銀の流通ルートの考察等により、ミャンマー北部のピュー(Pyu)のハリン(Halin)及びその近辺で発行され、その交易ネットワークの各地で使用されたものと今では考えられています。(ベイタノウ発行説もあります。)

 

ピューの主要城市 (Sri Kset=Srikshetra)

出展:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Pyu_Realm.png

 

ピューはエーヤワディー川中流域の主として円形または楕円形の城壁に囲まれた城市国家群よりなり、主要な城市は、中部のベイタノウ(紀元1世紀―5世紀)、南部のシュリークシュートラ(3-9世紀)、北部のハリン(3-9世紀)等があり、北は雲南(南紹)、南のエーヤワディー川下流・海岸部マルタバン湾沿いのモン(撣・金隣?)、西はアラカン(チャンドラ朝)、東はタイ側のモン(ドバーラバティー)に接していました。ピューの諸都市のうちで最大規模のシュリークシュートラは城壁部分だけで南北約4キロ・東西約3キロの広さがあります。灌漑用の水路も発掘されており、稲やほかの農産物もかなり高い生産量があり多くの人口を支えることができたと思われます。また、エーヤワディー川の水運を使って、雲南・ビルマ北部の銀をインド・中東・地中海・シャム湾方面に、更に、インド以東では最大の産地であったビルマ中部平原で栽培されていた綿を東南アジア・中国に輸出することによって経済的に繁栄したと考えられています。

 

ゲオグラフィアの世界地図中世版(原版はプトレマイオス著、紀元2世紀)

出展:ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:PtolemyWorldMap.jpg

 

紀元後1-2世紀にエジプトのアレキサンドリアで活躍した古代ローマ学者プトレマイオスの著作ゲオグラフィア(地誌)には当時のローマ・ギリシャ世界が認識していた世界について、西は大西洋沿岸から東はシャム湾の東、現在のカンボジア付近(扶南)までの地図と諸都市が記載されていますが、その中で、現在のバングラデッシュからミャンマーにかけての海岸は「銀の海岸」と呼ばれており銀が西方世界へ輸出されていたことを示しています。中国の「後漢書」によるとエーヤワディー川下流に1-2世紀頃にあった「撣」という国が陸路や海路で数回朝貢しており、中にはローマ人の幻術師まで献上してきたとあり、当時からすでに海路東西を結ぶ交易がおこなわれていたことを示しています。中国で6世紀ごろに書かれたとされる「広書」よれば、ピューは、綿・ガラス・川イルカ等を産し周辺国や中国にまで輸出していたとされています。

 

ピューの中心都市は、初期はベイタノウ、その後、シュリークシュートラ(Srikshetra)に移り、北方のハリンも長期にわたって中心都市として機能していたようです。コインのデザインも時代と場所によってかなりの変遷が見られます。また、各地でデザインが微妙に異なるものも多数出土しており、ピューのコインはその数や種類の多様性で圧倒的な地位を占めています。古代、日本では古墳時代から飛鳥時代前後にこれだけの規模の貨幣経済が東南アジアで機能していたことは驚きです。

 

(扶南)旭日銀貨だけでもその総出土数は一万枚を超えると思われ、東南アジアの古代コインの代表選手といえます。ミャンマーの経済発展に伴い出土は増えていく可能性もあります。欧米のオークション、バンコクのコイン屋やウィークエンドマーケットの骨董部門で入手可能です。今後数回に分けて代表的なコインを紹介します。

 

(Courtesy and copy right of Mr. Ronachai Krisadaolarn)

典型的な旭日銀貨。左より 80 ratti, 20 ratti, 10 ratti。

 

コインのデザインの詳細を見てみましょう。表面の水(地)平線と上下各6條の光を発する旭日のような文様はハリンの紋章と考えられています。裏面はスリバッサと呼ばれる吉祥天の住まいで現在の世界を表し、その上には太陽と月が描かれ天界を表し、下は三つの点ですが、同様のモチーフを使用しているシュリークシュートラやモン・ドバーラバーティのコインのデザインは波のような線や魚を用いている事から判断すると、インド神話の世界が誕生した原始の海を表現しているものと考えられます。アンコールワットの有名な乳海攪拌の壁画や、バンコクスワンナプーン国際空港のターミナル入り口にも同じ神話の趣旨の大きなオブジェがあります。左右には、吉祥の象徴である卍(swastika)と、シバ神の象徴で原始の海から世界を創造するときに打ち鳴らされてその原動力となったといわれる振鼓(damaru)又は王の玉座(バドラピタ)と考えらえるシンボルが配されています。つまりヒンズー教の世界観が示されていると思われます。ただし、インド本土ではそれぞれの要素はシンボルとしてコインのモチーフとなっていますが、ヒンズーの世界観を全体で表現するようなデザインのコインは見られません。

 

初期の標準的な80 ratti銀貨はその重量・大きさ・デザインがかなり規格化されてばらつきが少ないですが、その後時間をかけて徐々に規格から外れたものが増え、例えば表の旭の光の筋が8本から4本までのものや、裏面では各種シンボルの種類や位置が異なるもの等の種々バラエティーが各地より出土しています。一方、少額貨幣については、標準化されたものは見られず、中央から発する旭の光の数や、スリバッサの上の太陽や月、左右の卍や振鼓ダマルの位置や形状に大きなバラエティーがあり、作り自体も稚拙な印象を受けます。

 

初期の標準的な80 ratti銀貨と、少し変化は認められるが概ね規格通りのデザインの初期のバラエティーは、東洋古代コインの大御所Michael Mitchiner氏により3世紀ベイタノウ発行のものとされてきましたが、近年の発掘調査での出土状況やミャンマーのコレクター・研究者の意見を反映して、北部ハリンの発行であるという説が有力となっています。今でもオークション等ではベイタノウとの説明がありますがハリンが正解かもしれません。どちらが正しいのか判断に困りますね。将来現地で確認しようと思っています。

 

発行年代については、「The Early Coins of Myanmar (Burma) – Messengers from the past」という本を2012年に発表したDietrich Mahlo氏は著書の中で5世紀初期ハリンでの発行と推定しています。彼はコインのデザインの変遷や、ピューと隣接しコイン上にある程度年代が推定できる王の名が刻まれているアラカン王国(現在のミャンマーラカイン地方)でのピューのコインとアラカンのコインを同時に含むホードの分析、および、扶南オケオの発掘調査で旭日銀貨と同時に2世紀のローマコイン・1-3世紀の後漢五銖・3世紀のササン朝ペルシャのコインが出土した事実等を総合的に考えて5世紀はじめと結論付けています。(但しアラカンの年代紀が正確であるとの前提。) 扶南は2世紀から海のシルクロードの主要なハブであり、6世紀の後半にその役目を終えたと考えられるので、扶南で同時に出土したローマやササン朝ペルシャのコインを勘案すると、3-5世紀がより安全ではないかと思います。ただし、規格を大きく逸脱した各種バラエティーや少額貨幣はその後9世紀頃まで順次発行・使用されて続けていたものと思われます。