死恐怖症と心気症を抱えたぼくは、
来る日も来る日も自分の体調のちょっとした変化に異様に敏感になり、
親に
「ねえ、ここ(体の一部を指して)ちょっと痛いんだけどだいじょうぶかな?」
などと訊きまくるようになりました。
そのたびに親は
「え?そんなの何でもないよ、気にすんな」
「うるさい!人間なかなかヘンな病気にならないしそんな簡単に死なないから!」
と叱咤するのでした。
こちらはブラックホールに飲み込まれていきそうな気がするように
死ぬのが怖い、というのに何の理解もされませんでした。
まったくの孤独でした。
生きた心地がしません。
虚しい心が、ぼくの中を席巻するのでした。
その虚しさから、ぼくはまた1つの気付きを得るのです。
人生ってなんでこんなに虚しいんだろう。このまま小学校を卒業して、中学を卒業して、高校を出て、あわよくば大学を出て、何の意味があるのか?
そしたら会社に就職して…なんて、とても考えたくない。
パパのように会社の奴隷みたくなるなんて、まっぴら。
でも、どんな道を行ったとしても、どちみち最後は死んでいく…
こんな人生を前向きに明るく生きていくなんて、自分にはとてもできない…
周りの子どもたちが、そんなことはつゆほども考えずに
無邪気に将来の夢だの希望だの語っているのを見て、
よくもまあ人生をそんな豊かなものに考えられるなあと、
ものすごく白々しく感じていました。
ぼくは死恐怖症と共に、こうした漠然とした、
でも自分にとってものすごく大きな「実存的不安感※」を抱くようになりました。
※もちろん当時はこんな言葉知りません
生きているだけで、眩暈がくらくらするのです。
生きる意味。目的。理由。価値。
そんなことがまったく解らなくて、きっとどこまでも悩んでいたのでしょう。
ぼくの小学校時代は、そう言った死への恐怖と、漠然とした実存不安で
覆われつつ過ぎていきました。