今日は、仏教において無常と並んで最重要の概念、「罪悪」についてです。
多くの宗教に、罪悪の概念はあると思います。
たとえば、キリスト教。
生まれた時から「原罪」という罪を誰しも抱えているとされています。
その源泉は、人類の祖先?であるアダムとイブが神との約束を破った
(リンゴを齧った)からだそうな。
真宗徒のわたしからすると呆気にとられてしまうのですが、
こういう教えもあるのだなあと。
仏教では、諸派で共通して、罪悪とは「自分がタネとなって」
生み出されたものであるということです。
つまり、仏教では前世も前々世も前前前世も・・・
悠久の過去から繋がっているものとして説くのですが
その、どこかの前世で行った行為(業:ごう といいます)の結果が
現在のどこかで立ち現れてきている、と説明されるのです。
もちろん、前世の振る舞いの結果が現世を飛んで来世に生じる、
ということもあるでしょう。
このように、原因⇒結果、原因⇒結果、原因⇒結果、と延々とこの
律が「必ず」ついて回っているのです。
例外は1つもありません。
そして、前世に悪業を為せば、それが後世のいつかに必ず起こってくるのです。
これが、仏法における「罪悪」です。
逆にもちろん、ある時に善業を為せば、のちの世には善の結果が待っています。
ですから、わたしたち人間は善業を成すことによって善い結果を待ちたいものです。
と、、、いっても人間はそうそう善の業を積むことはできません。
自分の心の中をよくよく観じてみると、
ろくなことを考えていないと思われませんか?
いやいや違う、わたしは良い、素晴らしい、素敵なことばかり考えている、と
いう方はおられるでしょうか?
(ちなみに後の章でお話しますが、仏法ではココロの中で思ったこともすべて「業」になります)
もしかしたら居るかもしれません。
居たとしたら、あなたはもう聖人君主です。
これ以上このブログを読む必要は無いと思われます。
さようなら~
残った皆さん、あなた方はとても正直なお方たちですね。
そう、善を行うのがいかに難しく、悪を行うのはいかにたやすいか。
なんとなくでも、自覚されている方も多いと思います。
ここまで付いてこられているあなた方はとても仏法の素質があると思います。
つまり、死からの解決がなされやすい方々のように思います。
善を為して善を招くことを期待するよりも
悪を為している自分にどんな悪の果が待っているか、を考える方が
とても重要だとわたしは思います。
これらのことを、因果律とか因果法則とか世間の言葉では言いますが、
仏法では、これらは当然のこととしてことさら「因果の道理」と呼んだりします。
因果の道理については、また後ほど詳しく触れたいと思います。