叔父 平塚勝 は太平洋戦争間近の昭和11(1936)年に13歳で東京陸軍幼年学校(東幼)に40期生として入学しました。
彼の日記を紹介します。まだあどけなさが残っている中、軍人として叩き上げられる為にどのような厳しいながらもそれなりに充実した生活を送っていたのかを参考にしていただければ幸いです。
なお、本稿は過去の事実を伝えるものであり、特定思想の支持を意図するものではありません。

(c)2025- Shigeru Hiratsuka. All Rights Reserved.

_____________
【関連リンク】

陸軍幼年学校(Wikipedia)>

陸軍予科士官学校(Wikipedia)>
陸軍航空士官学校(Wikipedia)>
「修武55」航空士官学校55期生卒業文集(昭和17年・1942年)>

航士55 HM の青春 日本陸軍航空士官学校の日々>
平塚勝 太平洋戦争手記
 空を愛した男の死闘譜>
 涙の戦闘隊部隊全滅(飛行第78戦隊記録)>
 平塚勝関連
  「修武55」卒業文>
 遺書>
 自衛隊殉職>

_____________

記事中 太字は指導教官等からの朱書き。?は判読不可能部分

第2学年       14歳

昭和12(1937)年

_____________

10月31日           日曜日    曇

朝の運動は1・3・5学斑前段 2・4・6班後段にて剣術あり。4級の者教官となりて試合教習を行い、ヘトヘトとなる。
外出し羊羹を姉の所に持って行く。
第3学年、午前6時半頃帰校。午後に外出とのこと。
伊藤さん処にて昼食を戴き帰校す。
5日許続きし好天気悪くなれり。
第3学年此校に居るも後20日のみ。卒業後間もなく仙台幼年学校来る予定。

 

11月1日             月曜日    曇 小雨

6時半起床。食事後直に学科あり。
愈々11月となる。霜月なり。未だ東京にては霜至らず。
修学旅行に行きし方面にては霜降りし所少なからず。北海道には雪至り、氷も姿を現ししとのこと。
前段に柔道あり。教官殿来られず。予定表通り前段自習、後段剣術となるかと思いしも其の儘にて1・2・3学斑は後段に剣術あり。我等は後段自習。随意運動は剣術をなす。左右には腰充分に動くも、前に飛んで行けず。竹刀交換して使い難し竹刀の調子甚だ不良。何しろ4本とも別の竹なり。

 

11月2日             火曜日    曇

前段体操 後段自習。体操は巴を習う。難しきものなり。運動斑の運動は剣術なり。円陣試合成績1勝1敗。
昨夜橘さんの話によれば前から今晩随意運動時間に昨年の11月3日の如きのを行う予定なりしも卒業急に早くなりしと、第3訓育斑の訓育斑会ある為に中止となりしとのこと。一同ヒヤヒヤす。何の為にかかることをなすかと思わる。
夕食後の随意時間は集会にて半分は下に、半分は上に過す。

 

11月3日             水曜日    雨時々曇

明治節
幸に非常呼集なし。朝の日課は平常通り。
午前8時30分より大講堂に於て勅諭勅語の奉読式あり9時サイレンと共に宮城を遥拝す。
全国中9時を期し皇居を遥拝すとのことなり。
10時半頃姉の傍に至る。明治節に雨降りしは数年ぶりのことなり。皆不思議がる。
富沢生徒監殿・山崎生徒監殿、早くも少佐の服着て来らる。
1時間半余り昼寝す。8時半帰校。

 

11月4日             木曜日    曇

第5時限教練。徒手と執銃の不動姿勢と擔え銃の復習とあり。擔銃は1週間許銃を握らざる為。下手になりし如し。早く銃を軽く持てるようになりたし。
前段自習。
後段剣術(1・2・3学斑柔道)。面の斬撃に腰進まず。試合は第1回目加藤となす。充分に最初の1本、相ての竹刀の間を潜って胴に入りし積もりなるに取らず。それが為に敗る。審判の裏側ならざれば、と思えり。此の敗因は技は我の方勝るも、我残心をせざりし為なり。あきらめ切れざる一戦。
2回目、三宅。最初の一本奏功せず。2本目強引なる面正面より跳込む。腰の進み方等回診の斬撃。相手受けるも間に合わず。久し振りに試合にて実力が出たり。随意運動も剣術をなす。
竹刀の竹、4本とも不揃いの為、調子悪きこと甚だし。

 

11月5日             金曜日    曇 小雨

久し振りに唱歌あり、前段に。
後段剣術。今週は馬鹿に剣術多き週なり。
昨日行いし剣術、猛烈過ぎし為か、本日右手思う如く動かし得ざりしも試合教習、試合となれば自然に動きたり。
級の順に2組に分れて紅白試合を行う。我軍断然優勢。5人不戦。続いて次を行い、我、小林と当る。惜しき所にて敗れたり。
本日の敗因、余りにも無我夢中になりしことなり。当然受けらるべき胴、攻撃に急ぎて不覚をとる。平常の様になせば如何に進展せしかも量られず。
随意運動も剣術をなす。

 

11月6日             土曜日    小雨

第5時限 訓育学科。必勝の信念、ところが、前段の剣術のとき、必勝の信念も攻撃精神にも欠けて居るところありし為、連戦連敗の悲運。
何しろ3日間連続に剣術ありし為腕殆ど動かず。随意運動に剣術をなす。今度は必勝の信念と向後駅精神と充完せしめたるがゆえに相当の成果を収む。今週剣術は、実に8時間行えり。後段は兵器の手入。
夕食後第1学年に遠別離[1]を教う。一年間前は教えられ、今は教える身分。軈ては送らるる身なり。
6時半より7時迄、自習室に於て旅行記の下準備をなし、7時迄、集合所に行き、藤本教官殿にとっつかまり将棋を一番。薬1時間の混沌たる状況後、我が最後の攻撃奏功せず。遂に指切って了えり。少時の間、種々の話をなす。

 

[1] 程遠からぬ旅だにも 袂(たもと)別(わか)つは憂きものを 千重(ちえ)の浪路(なみじ)を隔つべき 今日の別れを如何にせん

 

叔父 平塚勝 は太平洋戦争間近の昭和11(1936)年に13歳で東京陸軍幼年学校(東幼)に40期生として入学しました。
彼の日記を紹介します。まだあどけなさが残っている中、軍人として叩き上げられる為にどのような厳しいながらもそれなりに充実した生活を送っていたのかを参考にしていただければ幸いです。
なお、本稿は過去の事実を伝えるものであり、特定思想の支持を意図するものではありません。

(c)2025- Shigeru Hiratsuka. All Rights Reserved.

_____________
【関連リンク】

陸軍幼年学校(Wikipedia)>

陸軍予科士官学校(Wikipedia)>
陸軍航空士官学校(Wikipedia)>
「修武55」航空士官学校55期生卒業文集(昭和17年・1942年)>

航士55 HM の青春 日本陸軍航空士官学校の日々>
平塚勝 太平洋戦争手記
 空を愛した男の死闘譜>
 涙の戦闘隊部隊全滅(飛行第78戦隊記録)>
 平塚勝関連
  「修武55」卒業文>
 遺書>
 自衛隊殉職>

_____________

記事中 太字は指導教官等からの朱書き。?は判読不可能部分

第2学年       14歳

昭和12(1937)年

_____________

10月24日           日曜日    曇

5時に起床し、静かに床を延べ洗面すまし、其他のことをなす中に6時10分前になり、外出の服装を整えて週番士官室に行く。金入受領、遥拝をなして直に飯田橋に行き千葉に行く準備をなし8時飯田橋発9時10分千葉着歩兵学校に至る。小半時を待ち面会遷都するも生憎外出中。帰営5時頃とのことに、荷物のみ置いて東京に帰り、姉のもとに一休みなして帰校す。
愈々明日旅行出発。第3学年は8時集合。
8時点呼、8時半消灯。

 

修学旅行   自10月25日 至10月29日
 
       中尊寺弁慶堂
      向って左端の後ろから2人目、座っているのが筆者
 
      会津若松 飯盛山 白虎隊十九士の墓
 
         仙台城跡 伊達政宗公騎馬像
 
 

10月29日           金曜日    晴

午後10時帰校            11時半消灯

 

10月30日           土曜日    晴

起床8時。8時半より各個に朝食。皆ペコペコなり。11時より修学旅行に使用せし兵器被服の検査。未だ寝不足の上、4時間許立ち続けし為非常に疲る。
午後1時20分より教育勅語奉読式あり。
以後は休養。銃の手入後サイクルレースを見に行く。力の戦なれば非常に面白し。
4時半より図書室に行く。
午後7時より事変ニュース映画あり。

 
 

叔父 平塚勝 は太平洋戦争間近の昭和11(1936)年に13歳で東京陸軍幼年学校(東幼)に40期生として入学しました。
彼の日記を紹介します。まだあどけなさが残っている中、軍人として叩き上げられる為にどのような厳しいながらもそれなりに充実した生活を送っていたのかを参考にしていただければ幸いです。
なお、本稿は過去の事実を伝えるものであり、特定思想の支持を意図するものではありません。

(c)2025- Shigeru Hiratsuka. All Rights Reserved.

_____________
【関連リンク】

陸軍幼年学校(Wikipedia)>

陸軍予科士官学校(Wikipedia)>
陸軍航空士官学校(Wikipedia)>
「修武55」航空士官学校55期生卒業文集(昭和17年・1942年)>

航士55 HM の青春 日本陸軍航空士官学校の日々>
平塚勝 太平洋戦争手記
 空を愛した男の死闘譜>
 涙の戦闘隊部隊全滅(飛行第78戦隊記録)>
 平塚勝関連
  「修武55」卒業文>
 遺書>
 自衛隊殉職>

_____________

記事中 太字は指導教官等からの朱書き。?は判読不可能部分

第2学年       14歳

昭和12(1937)年

_____________

10月17日           日曜日    雨           神嘗祭

神嘗祭
全員靖国神社に参拝せよ、とのこと。我は午後2時より支度をなす。表門の方は近衛第1、第2師団の為に通行禁止。往復ともバスを利用す。我此の神社に来るも後何年のことなるや。
午前中集会所に居り、午後少し明日の準備をなす。
本日朝の運動斑の剣術に第2学年よりは、25名中僅かに8名行きしのみ。昨日の行軍、及、其他にて10数名来らず。
愈々明日、及明後日は考査なり。

 

10月18日           月曜日    小雨

地理、第1問題はどうやら片付けるも第2問題にて散々の態。コロンとみごとにしてやらる。
歴史、之も地理と勝るとも劣らぬ成績。勉強不足を物語る。凡そ「道教」などと云う問題、何と書いたらよいものぞ、思わせらる。
修学旅行の栞渡る。皆大喜び。後1週間で家に行けると思うと非常に嬉し。
第5時限、修学旅行講話。第3回白虎隊、並会津戦争。

前段自習、後段剣術。試合教習にて足を痛む。随意運動は剣術をなす。

 

10月19日           火曜日    曇一時雨

考査 博物、第3時限の為、試験前迄も2時間の自習時間ありて大助かりなり。
生理衛生は第1問題は概ね書き得れども、第2問題整理不充分にて失敗す。動物、第3問題は間違い少なきつもり。第4問題大体書き得。見当附けて答案を書きし為、皆時間短しというに我丁度よかりき。気付かざる誤り多かるべし。
第5時限、修学旅行に関する講話、第4回。野口英世の話と山鹿素行の事について。
前段柔道、剣術にて傷つけし指痛く乱取をなさず。後段の体操危まれしに雨の為か中止。身体検査あり。第3訓育斑は後段は自習をなし身体検査、随意運動となる。
胸囲1糎、肺活量200㏄、全身筋肉5瓩、推力4瓩増ししのみ。握力、牽力共に減ず。視力1.5.
営内靴修理に出ししもの片方紛失とのことにて代品に非常に古品を貰う。あまり有難からず。我のは相当よきものなりしに。大いに悲観す。手入するも美しくならず。足に合わず散々なり。
夕食後酒保に行く。今月はとても酒保代上りそうな状態なり。彼の営内靴、失われし一方速に見出されんことを。又、代品、又交換する能わざるや。

 

10月20日           水曜日    曇後晴

11時に至り西方に雲の切れ目見え、半頃になりて雲は東に去り正午に至りては遂に日本晴に至る。あれほどの雲僅か1時間にて消え失すとは夢の如し。
本日より3日間、修学旅行の足馴しの為に学科に出場の際は編上靴を穿つ。ガタガタと騒がしし。
午後1時より大講堂に於て修学旅行に関する講話。国漢、詩、歌等の解釈を桂教授殿より、地理、歴史に関しては伊野部教官殿より話あり。其の後、昨日に続いて野口英世博士につき富沢生徒監殿より話あり。随意運動は籠球をなす。

 

10月21日           木曜日    晴

第5時限に教練あり擔え銃、立て銃の復習。なかなかうまく出来ず。新たに捧げ銃、立て銃を習う。擔え銃よりも難し。
前段、後段と集会所に於て修学旅行に関する講話第6回。山崎生徒監殿おり水戸義公、烈公、及び水戸学につき、非常に面白く聞く
4時20分頃終了。随意運動、忽ち終了。
夕食後軍歌あり。歌詞の覚え方不充分
明日の学科終れば1週間許なし。後4日にて家に帰り得。

 

10月22日           金曜日    曇時々晴

教育総監部本部長閣下の本校初度巡視あり。午前中のみにて我等には別段関係なし。唯会食あり。
前段半分を軍装検査の用意に費し、2時半より自習室に於て軍装検査、大過なし。愈々修学旅行近いを感ず。終了後概ね梱包の準備をなし。
随意運動は剣術をなし散々肘をやらる。矢代・上野・若林となす。漸く腰動く様になれり。
6時半より談話會。割合に面白かりき。
8時半終了す。皆修学旅行の話ばかり。

 

10月23日           土曜日    晴

靖国神社社例祭
快晴。一時は曇るも雨に至らず。此の分なれば修学旅行天気よかるべし。
外出、直に姉の所に行、修学旅行の話などしに時伊藤さんの家に行き一日中遊び、7時お茶の水を出発靖国神社に至る。
凡そ、浪とも形容せんか、実に潮の如き人なり。群衆と共に漸く進むに過ぎず。忽ちの中に7時半。社の真前にて拝礼せんと思うも混雑の為に果たさず。門を入りしばかりの所より賽銭を投ぐる者あり。中には散歩がてらに遊び半分に来る人もあれば、唯参詣せんものと来る人もあり。兎に角すごいほどの人出。
バス、都合よく来り8時5分帰校す。
明日千葉に藤平さんを訪ねんものと。急いで臨時外出願いをなす。8時半迄に被服の整理を終り直に願いを出さんとするも、うっかり明日の用意なす迄9時半になれり。
点呼の際体温を測定す。36度9分なり。

叔父 平塚勝 は太平洋戦争間近の昭和11(1936)年に13歳で東京陸軍幼年学校(東幼)に40期生として入学しました。
彼の日記を紹介します。まだあどけなさが残っている中、軍人として叩き上げられる為にどのような厳しいながらもそれなりに充実した生活を送っていたのかを参考にしていただければ幸いです。
なお、本稿は過去の事実を伝えるものであり、特定思想の支持を意図するものではありません。

(c)2025- Shigeru Hiratsuka. All Rights Reserved.

_____________
【関連リンク】

陸軍幼年学校(Wikipedia)>

陸軍予科士官学校(Wikipedia)>
陸軍航空士官学校(Wikipedia)>
「修武55」航空士官学校55期生卒業文集(昭和17年・1942年)>

航士55 HM の青春 日本陸軍航空士官学校の日々>
平塚勝 太平洋戦争手記
 空を愛した男の死闘譜>
 涙の戦闘隊部隊全滅(飛行第78戦隊記録)>
 平塚勝関連
  「修武55」卒業文>
 遺書>
 自衛隊殉職>

_____________

記事中 太字は指導教官等からの朱書き。?は判読不可能部分

第2学年       14歳

昭和12(1937)年

_____________

10月10日           日曜日    曇

朝6時半起床、同50分運動場掃除。第1班の掃除区域に空砲の薬きょう2個落ちありとのことなんど1個しか見出し得ず。
7時半朝食、8時半服装検査。
姉のもとへ行き昼食をなして動物園に行く。特に像、河馬、ジラフ等、体の大なるもの面白し。校外散歩にて行きしことあるがゆえに特に変ったことなし。4時半上野を出て5時5分帰校。

 

10月11日           月曜日    晴

前段教練。執銃の不動姿勢及右向け、左向けあり。銃をうまく腰に支えられず。
後段剣術。裏突きを擦上げて篭手を斬る動作を習う。
随意運動は剣術を続く。

 

10月12日           火曜日    曇一時雨

前段唱歌。フランス国歌及ドイツ国歌。
後段体操の予定なるも雨天の為訓育学科。
修学旅行の為の源九郎義経話を富沢生徒監殿よりあれり。25日の朝出発とのこと。水郷は行かぬ様なり。帰路日光に寄る予定。
随意運動は剣術をなす。未だ腰動かず。

 

10月13日           水曜日    曇

午後1時より被服検査の準備。不在者の分もなす為に忙し。2時より修学旅行に必要なる被服の検査あり。
後段第1教室に於て訓育学科。本日は伊達政宗。面白く聞く。
又雨の為剣術をなす。技進歩せず。脚を痛む。

 

{第1冊完}

日記

 

     自12年10月14日   至13年3月19日

       (1937年-1938年)

 

 

陸軍幼年学校 第2学年第5学斑

                            平塚 勝        

 

10月14日           木曜日    晴

後10日にて修学旅行なり。
第5時限教練。擔(にな)え銃、立て銃をならう。忘れそうなり。擔え銃の第3動を落としがち。立て銃の第1動難し。皆、肩の釦を附け代え、3年生かと思わる。
前段-後段続けて訓育学科各種兵器の性能、大抵偕行社記事、或は軍事と技術にあることなりき。次に北支の状況につき若干の説明あり。

 

     歩兵操典   「第一篇 各個教練 第一章 基本 第二節 担銃、立銃、行進」 をAIにより図示

 

10月15日           金曜日    晴後雨

前段柔道。後段体操。
柔道は今迄の復習。兎に角投げらるるは良い気持ちせず。
体操は濠の越え方。広い濠と狭い濠との場合、鉄条網の通過とをならう。何れも難し。
体操終了後直に散髪をなす。好天気の為、明日の終日行軍大当りと思いしに夕食後より雨降り出し、皆がっかりす。しかし雨天にても行くとのこと。夕食後随意時間。姉に手紙を書き後入浴。入浴後酒保に行く。第3学年は天候によりては明日中止とのこと。

 

10月16日           土曜日    雨           行軍

終日行軍
朝は平常通り。集合7時30分。
相当の雨にて大変と思いつつ集合せしが、果たして相当な結果となる。
出校。直ちに京王新宿に向い京王電車に便乗、弁当は弁当箱に入り居る為、安心して腰を下す。
8時40分多磨原[1]着。直ちに連光寺に向い出発。靴には瞬く間に水侵入し靴下グチャグチャになる。靴3分の2程かくるる程の水溜りあり。列をなして行く為、殆どさける能わず。入るがままにまかす。防雨外套の頭巾を着用せる為、非常に視野狭く雨の為に途中付近景色殆ど見ず。11時頃連光寺台に至る。休憩所にて各訓身長10番まで上に上れと云われ、それからが大変なり。装具をとるに一苦労。殊に靴は倒まになすと水が流れ出ずるありさまなり。靴下からは露水が流れ山風ぬれし身に非常に肌寒し。
晴天なればさぞ絶景ならんと思わるる山河も今は雨と霧に包まれて視野から去り、唯白一色。昼食後、火にて乾す暇もなく、冷たき靴下に無理に足を入れ、それを又、無理に靴に入れる。北支の行軍の辛苦、これ以上と思うと想像にも及びがたし。部長殿、富沢大尉殿の講話若干の後、傍の聖蹟記念館拝観。時間の少きを惜むのみ。
帰路は最初の中は相当急な山路にて水溜りなく後には舗装道路の為水溜り少なきも、結局相当の水入れり。3時15分国分寺駅着。途中大国魂神社に参詣す。55分の省線電車にて中野にて乗換え、5時帰校す。第1入浴に全員の為、第1、第3浴場も使用す。
第1学年は本日行かざりしとのこと。
寝室に火鉢あるも乾かすもの多き為殆ど効なし。皆にて残留者を羨しがる。
夕食後は酒保にて終る。

 

[1] 多摩川原駅。現京王多摩川駅。

 

 

 

叔父 平塚勝 は太平洋戦争間近の昭和11(1936)年に13歳で東京陸軍幼年学校(東幼)に40期生として入学しました。
彼の日記を紹介します。まだあどけなさが残っている中、軍人として叩き上げられる為にどのような厳しいながらもそれなりに充実した生活を送っていたのかを参考にしていただければ幸いです。
なお、本稿は過去の事実を伝えるものであり、特定思想の支持を意図するものではありません。

(c)2025- Shigeru Hiratsuka. All Rights Reserved.

_____________
【関連リンク】

陸軍幼年学校(Wikipedia)>

陸軍予科士官学校(Wikipedia)>
陸軍航空士官学校(Wikipedia)>
「修武55」航空士官学校55期生卒業文集(昭和17年・1942年)>

航士55 HM の青春 日本陸軍航空士官学校の日々>
平塚勝 太平洋戦争手記
 空を愛した男の死闘譜>
 涙の戦闘隊部隊全滅(飛行第78戦隊記録)>
 平塚勝関連
  「修武55」卒業文>
 遺書>
 自衛隊殉職>

_____________

記事中 太字は指導教官等からの朱書き。?は判読不可能部分

第2学年       14歳

昭和12(1937)年

_____________

10月3日             日曜日    晴

残留す。10時半迄野球をなし非常に汗を流す。
それより自転車にて学校中を走廻りヘトヘトになり11時半昼食。後3時迄集会所に行く。片岡さんに会えり。
昼寝をなし起きると直に入浴。後寝室に居る中に帰校点呼となる。

 

10月4日             月曜日    晴

前段自習。後段剣術。連続斬撃の教官動作を習う。後試合教習。試合あり。試合は1勝1分け。腰が進まず。
運動斑運動。リレー練習にてヘトヘトとなる。150米23秒台にて走りたし。バトンタッチ皆下手なり。
今度の慰労会は食堂ならん。唯奮闘せんのみ。

 

10月5日             火曜日    晴

前段柔道。縦四方固、上四方固を習う。
後段体操。駈足の後に鉄棒をなす。海老上り、振跳びなり。海老上り旨く上らず。
第3学年は教練にて模擬戦を行いしため運動斑の運動取止めとなる。
随意運動は続く2時間の術科の為に、する気にならず。班長殿の鉄棒を見学す。夕食後騎馬戦の馬と騎手と決定。

 

10月6日             水曜日    曇後晴

夜中に雨ありて運動場に水溜多く、今日の予行危まれしに。汲出せしのか、水溜、午後には既になかりき。
1時半より運動会予行あり。行いし種目は、基本体操、空襲、長城一番乗、負傷兵逓伝、2300米継走、野試合なり。以上の中にて本日の成績は、空襲 1等、長城一番乗り 5等、負傷兵逓伝 4頭、野試合 負、2300米継走 6等、という優秀?ママな結果。之にては当日を思い遺らるも当然至極。トラック非常に滑り、リレーは皆実力でず。あと輕い練習をなす。3班の者たちは相当に鍛えられて居たり。あの様な調子なれば過労性筋炎小なからざらん。
夕食後の集会なし。

 

10月7日             木曜日    晴

第5時限、教練。初めて銃を執りて行う。先ず不動の姿勢、右向け、左向けは、執銃にては益々難しくなれり。本日好天候の為昨日滑りし運動場、殆どよくなれり。明後日迄雨降らずんば、最良のコンディションともならん。
前段後段共自習。三井の所に見舞いに行き牛島、本間にも面会す。皆元気なり。但し我戦友の角替、唯一人第6内科に飛ばされ居たり。仮の病室とも云うべき所にて離れて居る為か虐待されるとの話。本人は自宅療養を希望して居るという状況なり。せいぜい慰めて帰校、5時25分になりき。我も角替自宅療養の方好き様に思う。

 

10月8日             金曜       雨

朝より小雨なりしに10時頃に至り本降りとなる。
前段剣術試合。もう少しの所にて水戸に敗る。残念なり。腰が割合に思う様に動けり。
後段唱歌。
随意運動の際運動斑の集合。剣道場とありし為、直に集るに30分待呆けとなり帰舎に見たれば、集合、と書きし傍に取止め、とあれり。
運動会明日恐らくなからん。水曜日の予定。

 

10月9日             土曜日    晴           秋季運動会

俄然好天候となり、空に一点の雲もなき状態。文句なしに運動会行わる。誰しも本日此の如き天気になると思わざりしならん。
無念にも第1班、5位となる。若し、綱引なかりせば2位なるべき。得点も綱引に敗れし為、又、我より下位の運動斑綱引に勝ちし為に此の苦杯、残念。何とも云えぬ心地。実に綱引に恨深し。
今回の運動斑、第1班、2年生の成績甚だ振わず。100米1位は当然なれど、長城一番乗 4位、2300米継走 3位、旗奪は勝なり。而も当然勝得べき障礙物継走 6位とは。
夕食後7時半よりのひと騒ぎ。鬱憤を霽し切れず。
本日より取締役生徒なるが故に出来るだけ声を倹約す。日夕点呼9時半。