叔父 平塚勝 は太平洋戦争間近の昭和11(1936)年に13歳で東京陸軍幼年学校(東幼)に40期生として入学しました。
彼の日記を紹介します。まだあどけなさが残っている中、軍人として叩き上げられる為にどのような厳しいながらもそれなりに充実した生活を送っていたのかを参考にしていただければ幸いです。
なお、本稿は過去の事実を伝えるものであり、特定思想の支持を意図するものではありません。
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記事中 太字は指導教官等からの朱書き。?は判読不可能部分
第2学年 14歳
昭和12(1937)年
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10月31日 日曜日 曇
朝の運動は1・3・5学斑前段 2・4・6班後段にて剣術あり。4級の者教官となりて試合教習を行い、ヘトヘトとなる。
外出し羊羹を姉の所に持って行く。
第3学年、午前6時半頃帰校。午後に外出とのこと。
伊藤さん処にて昼食を戴き帰校す。
5日許続きし好天気悪くなれり。
第3学年此校に居るも後20日のみ。卒業後間もなく仙台幼年学校来る予定。
11月1日 月曜日 曇 小雨
6時半起床。食事後直に学科あり。
愈々11月となる。霜月なり。未だ東京にては霜至らず。
修学旅行に行きし方面にては霜降りし所少なからず。北海道には雪至り、氷も姿を現ししとのこと。
前段に柔道あり。教官殿来られず。予定表通り前段自習、後段剣術となるかと思いしも其の儘にて1・2・3学斑は後段に剣術あり。我等は後段自習。随意運動は剣術をなす。左右には腰充分に動くも、前に飛んで行けず。竹刀交換して使い難し竹刀の調子甚だ不良。何しろ4本とも別の竹なり。
11月2日 火曜日 曇
前段体操 後段自習。体操は巴を習う。難しきものなり。運動斑の運動は剣術なり。円陣試合成績1勝1敗。
昨夜橘さんの話によれば前から今晩随意運動時間に昨年の11月3日の如きのを行う予定なりしも卒業急に早くなりしと、第3訓育斑の訓育斑会ある為に中止となりしとのこと。一同ヒヤヒヤす。何の為にかかることをなすかと思わる。
夕食後の随意時間は集会にて半分は下に、半分は上に過す。
11月3日 水曜日 雨時々曇
明治節
幸に非常呼集なし。朝の日課は平常通り。
午前8時30分より大講堂に於て勅諭勅語の奉読式あり9時サイレンと共に宮城を遥拝す。
全国中9時を期し皇居を遥拝すとのことなり。
10時半頃姉の傍に至る。明治節に雨降りしは数年ぶりのことなり。皆不思議がる。
富沢生徒監殿・山崎生徒監殿、早くも少佐の服着て来らる。
1時間半余り昼寝す。8時半帰校。
11月4日 木曜日 曇
第5時限教練。徒手と執銃の不動姿勢と擔え銃の復習とあり。擔銃は1週間許銃を握らざる為。下手になりし如し。早く銃を軽く持てるようになりたし。
前段自習。
後段剣術(1・2・3学斑柔道)。面の斬撃に腰進まず。試合は第1回目加藤となす。充分に最初の1本、相ての竹刀の間を潜って胴に入りし積もりなるに取らず。それが為に敗る。審判の裏側ならざれば、と思えり。此の敗因は技は我の方勝るも、我残心をせざりし為なり。あきらめ切れざる一戦。
2回目、三宅。最初の一本奏功せず。2本目強引なる面正面より跳込む。腰の進み方等回診の斬撃。相手受けるも間に合わず。久し振りに試合にて実力が出たり。随意運動も剣術をなす。
竹刀の竹、4本とも不揃いの為、調子悪きこと甚だし。
11月5日 金曜日 曇 小雨
久し振りに唱歌あり、前段に。
後段剣術。今週は馬鹿に剣術多き週なり。
昨日行いし剣術、猛烈過ぎし為か、本日右手思う如く動かし得ざりしも試合教習、試合となれば自然に動きたり。
級の順に2組に分れて紅白試合を行う。我軍断然優勢。5人不戦。続いて次を行い、我、小林と当る。惜しき所にて敗れたり。
本日の敗因、余りにも無我夢中になりしことなり。当然受けらるべき胴、攻撃に急ぎて不覚をとる。平常の様になせば如何に進展せしかも量られず。
随意運動も剣術をなす。
11月6日 土曜日 小雨
第5時限 訓育学科。必勝の信念、ところが、前段の剣術のとき、必勝の信念も攻撃精神にも欠けて居るところありし為、連戦連敗の悲運。
何しろ3日間連続に剣術ありし為腕殆ど動かず。随意運動に剣術をなす。今度は必勝の信念と向後駅精神と充完せしめたるがゆえに相当の成果を収む。今週剣術は、実に8時間行えり。後段は兵器の手入。
夕食後第1学年に遠別離[1]を教う。一年間前は教えられ、今は教える身分。軈ては送らるる身なり。
6時半より7時迄、自習室に於て旅行記の下準備をなし、7時迄、集合所に行き、藤本教官殿にとっつかまり将棋を一番。薬1時間の混沌たる状況後、我が最後の攻撃奏功せず。遂に指切って了えり。少時の間、種々の話をなす。
[1] 程遠からぬ旅だにも 袂(たもと)別(わか)つは憂きものを 千重(ちえ)の浪路(なみじ)を隔つべき 今日の別れを如何にせん












