最初に間質性肺炎だと言われたのが

2016年頃  丁度 離婚前後と重なり、離婚が決まった後すぐに診断され1人の闘病生活の幕開けでもだった。

この時は 膠原病の治療もしながら

間質性肺炎との診断されたけど

両者は個別の症状として扱われた

この時初めて 酸素ボンベの事を言われたが

それはこの時には断った。


そのまま 病院にも行かず

知り合いから シムビコートを貰いながら誤魔化していた。


そして2022年 仕事上の事故で入院時

肺に異常が見られると

それまで 健康診断では引っかかっていたが

もし 万が一何か重症みたいな話しがあって結果が出た時、仕事に支障をきたす事を恐れて無視していた。

そして事故での入院時 全身麻酔をしないと手術が出来ないため 肺炎が落ち着いてからの手術と云う事で 事故で骨折した足の手術は1ヶ月延びた…


そして 手術 3ヶ月の入院を終えて退院

それから 改めて呼吸器内科の受診

そして酸素療法が始まる

当初は断っていたがもう諦めた。

これで少しは楽になると思った

そして治る事も期待した

そこでは総合病院でありながらも精密検査は大学病院でとの事で、紹介状を書いてもらい

大学病院での治療が始まる。


そこで尚更 色々と諦める事がありすぎることを知る

これも 放置してきた結果なんだと

それでもまだ諦めてはいなかった

治る治療法があるんだと思ってた。


すると 「もう無理だよ 後は 移植しかない やりますか?」

”やる”としか言いようがない。


そして札幌の大学病院では移植手術が出来ないとのことで本州の大学病院へ行くこととなり

またそこで 新たに諦める事が有ることに気付く

まぁ とりあえず 移植登録は完了はしたが

進行性であるため それまで持つか…


この1年で 一気に進行してる事が体感でわかる

移植担当の医師も

「待ってるからね  絶対戻って移植するからね それまで健闘を祈る」との握手の感触が忘れられない。


ネガティブな感情は無い

ただ 無理しても出せていたやる気は

呼吸と共に薄れていく


神に祈りたくても

その数段の階段で辿り着けない

だから平場を探す

祈るにしても 昔のように声を出し続ける事が出来ない 経も祝詞も声に出せない

だから心の中で唱える

そして静かに瞑想はする

雪が溶ければ

春よりもうちょい先🌸


桜の咲く頃にはウォーキングでもしてみよう

とりあえず今は家でストレッチで維持をする


ごめんなさい 独り言でした(*^^*)


いつか 俺のスマホを子供たちが見た時のために

記録として