天才写真家岩谷薫氏のブログから 神様が見えるという話 | 日置研究室 HIOKI’S OFFICE

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作家の日置俊次(ひおきしゅんじ)が、小説や短歌について語ります。
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  天才写真家岩谷薫氏のブログから 神様が見えるという話

 

 以前に岩谷薫氏のブログをリブログしている記事を、ここで再録します。今日は何を言いたいのかというと、「神様が見えるかどうか」というお話です。

 岩谷氏のお母様は霊が見えるということで、ほらそこにいると霊を指さすことが日常だそうです。以前に私のブログでは、そういうお話があちこちにあるという例を挙げてみました。

 私は霊が見えませんが、気配は感じます。ルメにはいろいろ見えていたようです。夜に散歩していると、向こうのほうをじっと見つめて、あっちに行きたくないというので、そっちにはいきません。霊はどこにでもいるのですが、霊の中にはたちの悪い子が時々いるので、その場合は離れた方がいいのです。どうしてもその道が避けて通れないときには、ご供養としてお経を唱えながら通ります。

 それでは人間の霊のほかに、神様の場合はどうなるのかという話になるのですが、これはかなり同じ次元で考えてもいいのではないかと思います。要するに、見える人には見えるというのが実際のところです。霊も神様もあまり区別はありません。そのことを少しメモしておきたいと思います。

 岩谷氏が良く言及なさっている『ピダハン』は、本を読んでいて一番印象深い部分はやはり、ピダハンの人たちがみんなが神様が見えているということでしょう。しかし、ピダハンのみんなが神様がいると指さしているところを眺めても、西洋人の著者には何も見えないのです。

 以前の私の記事では、それを脳裏に置きながら、富士山の青木ヶ原のお話を引用しました。これは霊たちの話で、神さまや妖精とは違いますが、似ている感じなので、下に再録しています。

 先日、インスタグラムを見ていて、気になった投稿がありました。メモしておけばよかったのですが、記録を取らなかったので、詳細がわからず、もう見つかりません。

 その内容ですが、日本人の普通の方々で、オオカミを山の神として祀っている神社にご一家でお参りをした様子が、動画で報告されていました。いつもお参りをされているような感じでした。

 神社の境内に、立ち入り禁止の聖域があるのですが、ちょっとした山の広場のような感じの空間で木が生えています。何ということもない場所なのですが、ご一家がお参りを終えたところで、2歳ぐらいの男の子が、聖域のやや遠くを指さして、ワンワン、ワンワンというのです。

 親御さんたちが「わんわんがいるの?」と聞くと、ワンワン、ワンワンと子供は指さして繰り返しているのです。動画は聖域のその方角を全部映し出しましたが、犬らしいものはいません。もちろん人もいません。親御さんたちも何も見えないなあといっています。しかし、子供は指さしてワンワンと言いながらそっちに駆けだそうとするので、みんなで子供を止めていました。

 そういう動画ですが、どう見ても子供が演技しているようには見えません。年齢的にも無理です。「ワンワン」がはっきり見えているらしいのです。

 ワンワンと言っていますが、子供には山の神様のオオカミが見えていたと考える以外にありません。

 ピダハンの場合も同じようなのではないでしょうか。

 もちろんオオカミ神はわざと子供に姿を見せているのであり、大人に撮影をさせたのもわざとだと思います。この子供には良いことがありそうな気がします。

 動画を見ても、私にはオオカミは見えませんでした。たぶんルメがその場所にいたら、神であるオオカミが見えていただろうと私は思います。これはあくまでも主観的な、ただの印象ですが、複数のオオカミがいるように感じました。

 神様というものはこういうことを時々なさるものなのです。龍神様にお参りしても、普段は何も見えませんが、時々、ア、龍神様が今いらっしゃると感じられることがあって、それは言葉では説明できない感じです。ルメには見えているらしく、何かぶつぶつ言ったり、ぼーっと見ていたりしていますが、何も不思議には思っていないようです。ルメはピダハンに近い霊的状態を持っているのではないかと思います。

 幼児や犬など、はっきりと言葉に出せない状態のものには、神様が見えやすいという関係があるのかもしれません。ブログを書くようなおしゃべりな人間には、なかなか見えないものだと思います。

 岩谷氏のお母様と岩谷氏にはいろいろなことを教えていただきました。

 また16年半にわたり、ルメにはいろいろなことを教えられました。ルメに会いたいです。

 以下は、以前の記事の再録です。

 

 岩谷氏のお母様は、死んだ人の霊がお見えになるようです。

 これは何も不思議なことではないのです。また、岩谷氏の名著『亡くなる心得』の読者にとっても、不思議な話ではないでしょう。

 私もそういう話を集めているのですが、一つ例を出したいと思います。

 

 工藤隆雄『山の今昔物語』から、差しさわりのない話を引用したいと思います。特に内容の深い話ではありません。

 某という男性(なにがしという匿名の男性)がいて、山の会を主催しており、富士山の青木ヶ原をみんなと歩いていた時の事です。60歳を過ぎた婦人がその中にいましたが、急にその人が、「何人かの男の人が登山道の柵の外にある岩に座っている」といい始めました。以下、引用です。


 登山道の柵の外の岩に座っている? 登山者が登山道から外れることは禁止されている。特に青木ヶ原は道に迷う可能性が高いため、柵から出てはいけない決まりがある。某は注意しようと思って、そちらのほうを見た。しかし、登山道の柵の外に岩があったが誰もいなかった。
「いませんよ、どこにいるのですか」と訊いた。すると、ご婦人は「いるじゃないですか、ほらあそこ、右のほうに」といった。しかし、やはり誰もいなかった。「いないですよ」というと、ご婦人はこういった。
「ああ、あなたには、見えないのね」
 某はその時、初めて気がついた。自分には見えない人がこのご婦人には見えるということを。
 その途端、全身が総毛立った。思わず「そんな話はしないでくださいよ、苦手なんです」といったが、「でも、見えるから仕方ないの。ほら、あすこの木の横にも男の人が一人立っているわ、とても寂しそうな顔をしている」と今度は反対のほうを見ながらいった。しかし、見るとやはりいなかった。
 某はこのご婦人とはそれまで何回も山を一緒に歩いたことがあったため気心を知っていたが、決して人をからかって喜ぶような人ではなかった。というより、冗談をいうと「はしたないわね」といってたしなめるような人だった。そのため、男の姿が見えるといったのは、嘘ではないと思った。ご婦人が「青木ヶ原で死んだ人が登山道を歩く人をうらやましく見ているのかもしれませんね」といったので、某は「そうかもしれません」というしかなかった。

 

 以上、引用です。淡々とした話で落ちも何もないのですが、それだけに、信ぴょう性のある文章だと思います。脚色の痕跡がないのです。さりげない証言です。ピダハンに霊が見えるという話も、こんな感じなのではないでしょうか。

 

 ただ、霊の世界とあまり親密になると、作家は作品が書けなくなります。全部を受容すると気がくるってしまうので、私は耳をふさいで、鼻にも蓋をするような気持で、作品を書くことがあります。これがわからなかったので、若い時は苦労しました。どうも距離の取り方というものがあるようです。岩谷氏はそのあたり、エキスパートであるように見えます。

 

 この距離感はどういうことかというと、例えば走っている汽車に娘が乗っていて、その娘が窓から、待っている弟たちにみかんを投げてやるとしましょう。しかしこの娘は、霊なのです。弟たちには霊が見えています。作家もそれを見ていて感心しますが、相手は死んでいる霊なので、霊の境遇にそれほど同情もしません。そんな感じの距離感ですね。全身全霊で同情してしまうと、作品に書けなくなります。

 それから、龍神様の声は何をしていても聞こえるようです。声というか、何かがぽんと伝わってくる感じです。これは不思議な話です。

 

  

 

皆様のご健康をお祈りいたします。

   そして皆様に、すばらしい幸運や喜びがやってきますように。

       いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。