文士の本分を貫いた作家小川国夫

 「僕は枯れ木だな。なきがら、とりがら、うつせみ、そんな心境です。でも作家は死に向かって成長します」(『朝日新聞』2008年5月30日夕刊「惜別」欄)。2007年2月にインタビューした朝日新聞編集委員・白石明彦が紹介している小川国夫のことばだ。2時間の予定だったのに、深夜小川と場末の飲み屋にたどり着くと、12時間が経過していたという。白石は、「内向の世代を代表する作家が歌うカラオケの「唐獅子牡丹」には、神妙な味わいがあった」とも述べている。2008年4月8日、肺炎のため亡くなった小川は80年の生涯のうち、70年間を故郷である静岡県藤枝市に暮らした。聖書の世界との交響を踏まえた作品や大井川流域の風土に根ざした物語が小川文学の根幹をなす。晩年は、自らのルーツを大河小説にしたいと語っていた。

 ところで、藤枝の隠れた銘酒「志太泉」のラベルの文字も小川の筆によるものだった。蔵元の名前は「志太泉酒造」。代表銘柄である「志太泉」ともども、創業当時からの名前だ。“志太”は地名だが、語源は植物のシダから来ているともいわれている。駿河国(現静岡県)にあった志太平野に端を発し、奈良・平安時代にはすでに、志太郡としての記録が残っている。志太郡は志太平野の政治・経済・文化の中心となっており、現在の藤枝市・焼津市・島田市にかかる地域であった。

 この古くからある地名「志太」を採り、「「志」し「太」く「泉」のように湧き立つお酒を造りたい」という願いを込めて「志太泉」が誕生した。

  

                          瀬戸川上流の良質な水

 

 温暖な気候と恵まれた水質で酒造りをする「志太泉酒造」は、「志太泉を飲むために藤枝を訪れたい」と思わせるようなお酒を造ろう」との思いから、地元への強いこだわりに支えられて創業された。「お米は買うことができるけれど、仕込み水を買うことはできない」。そう考えた初代当主の望月久作が酒蔵の地に志太を選んだのは、素晴らしい水が湧く土地だったからだ。

 藤枝市瀬戸ノ谷の高根山付近に源を発し、南へ流れ、焼津市の焼津港付近から駿河湾に注ぐ瀬戸川上流の水質は、今でもろ過する必要がないほど良質で、藤枝市の蓮華寺池公園で毎年開催されるお茶会「手揉み茶保存会」では必ず志太泉酒造の仕込水(しこみすい)が使われる。水質は硬度3.4の中軟水。この水が「志太泉」のやわらかな酒質のベースになっている。
 代表的なラベルの書体は以下の三つ。

     
       大吟醸・吟醸酒向け                       純米酒向け             普通酒向け
                                                 
 左側の大吟醸や吟醸酒向けのラベルの文字は、先代が、藤枝出身の作家・小川国夫と交流があり、揮毫(きごう)してもらったのだという。小川国夫の落款も見える。その書体に富士山をあしらったのも、“静岡のお酒”という自負のあらわれだそうだ。

 「志太泉」の文字を揮毫した小川国夫も、生涯の大半を故里で過ごし、自分の生まれ育った大井川流域の風土に根ざした物語を紡ぎ続け、自らの存在の原風景を追い求めた。まさに「志し太く泉のように沸き立つ」骨太の作家であった。
 スクーターで地中海沿岸を旅した体験をもとに、私家版の短編集『アポロンの島』を出したのは29歳のとき。反響は殆どなく、1冊だけ奄美から注文が入った。島尾敏雄からのものだった。「透明な使い方によることばをたてかけるぐあいにならべた」と、余計な説明を施すことなく描写に徹した文体を的確に評価した島尾は、小川国夫の名を世に知らしめた。


  
『アポロンの島 (私家版)』(1957年10月、青銅時代社)

 

 没後の妻のことばが、最後の文士ともいうべき小川の生涯を彷彿とさせる。「昼は眠り、夜に書く生活を一生つづけました。小説が片時も頭から離れず、日々の生活など心配したことはありません。家族のことをどう考えていたのか今も分かりません」(『朝日新聞』2008年5月30日夕刊「惜別」欄)。

書物の記憶〈06〉:小川国夫『止島』『虹よ消えるな』(二〇〇八年、講談社)

 病床でゲラに手を入れた短編集『止島』(2008年5月、講談社)と随想集『虹よ消えるな』(2008年5月、講談社)を絶筆として、小川は文士の本分を貫き、生涯を閉じた。「これができれば僕の人生は百点満点」と語っていたライフワークの連作短編集『弱い神』を仕上げる余力は、最早なかった。
 「葦枯れて」「しのさん」「亀さんの夕焼け」「琴の思い出」「舞い立つ鳥」「潮境」「未完の少年像」「止島とめじま」「母さん、教えてくれ」「志願」の10編の短篇から成る『止島』は、小川が過ごした土地に流れる人々の息吹を、記憶に甦ってきた人の生と死を見つめることで描き出した好編だ。
 

        

         『止島』(2008年5月、講談社)     『虹よ消えるな』(2008年5月、講談社)

 

 人生の大半を静岡県藤枝市に暮らした小川国夫は、駿河湾西岸の光と戯れ、闇に親しんで過ごした作家であった。そんな身辺の日常をめぐって、文学、あるいは聖書について……、日々思索を重ねる時間の向こう側には、静謐なときが流れ、様々な事物が色濃く影を落とす。日常の記憶の断片に言葉を与えた随筆集『流木集』(1986年7月、小沢書店)に収められた文章の数かずは心を打つ。

 

  学生時代の〈物〉としての本に対する無関心は、情操の欠落とさえ思える。その  

 後も長い間私は、書物とは内容だという考えに無意識に支配されていた。だから、

 ほとんど三十年をけみして、自分の書いたものを本にしてもらえる機会がおとず

 れ、そこに企図や配慮、センスや技術を見た時、結構〈物〉としての本を感じ、胸

 をふくらませることができた少年時代がよみがえるのを感じた。(「本箱と本の想

 い出」)

 

  小学生の時には焼津の浜でも泳ぐことができたが、中学生になった頃には、もう

 泳げなくなっていた。というのは、その頃には、簡単ではあったが岸壁ができて、

 港の体裁を備えてしまっていたからだ。そこで私たちは、焼津から駿河湾西岸を南

 下して、乙女が丘という所まで泳ぎに行かなければならなかった。道筋は小泉八雲

 ゆかりの土地で、彼の随筆に書かれている乙吉の家や弁天の祠があった。八雲はこ 

 の辺で、漁師たちの話を聞いたのだ。暴風雨の海に投げ出され、波間に亡霊を見た

 漁師、そのまま死んだ者、九死に一生を得た者……。小川新地と称ばれるこの地に

 は、海の爪が住民をかきむしった傷跡があった。八雲が最も心を動かされたのもこ

 の事実であったに違いない。海に流す精霊(しょうろ)の灯を追って、八雲が沖ま

 で泳いで行き、夜の海に一人ただようくだりは、土地者の私には如実であり、時々

 感動となって胸にこみあげた。(「駿河湾西岸」)

 

  今から十五年ほど前のある夜、いつの間にかお袋のことを短歌にしようと案じて

 いる自分を発見したことがあった。そのありきたりな歌は思い出そうとすれば思い

 出せるが、詠嘆が照れくさくもあり、思い出したくはない。だから大意だけ記す

 が、闇にまぎれて行く息子が見えないといって、母は泣いている、というほどのこ

 とだった。(「母のこと」)

 

  明け方仕事を終えて、近くの丘を散歩することがある。朝露を踏み、鳥の声を聞

 いて、密室の作業の重苦しさから解放され人心地をとり戻す。少し前までは、この

 朝の散歩にいろどりを添える要素があった。というのは、早起きの老人グループが

 丘の頂上にいて朝日をながめていたのだ。私を呼びとめて、少し話していかない

 か、と誘ったものだ。(中略)

  特に心に残るのは石神さんという老人で、この人の家は丘のふもとにあるので、

 私が通りかかると、窓から声をかけることがあった。朝酒の燗をつけているのだ。

 どうだ小川さん、一緒に一杯やっていかんかね、というので、私はよばれたことも

 あった。それから、二人連れ立って丘を登るという次第であった。/石神さんは七

 十五歳を過ぎてからは、酒だけで生きているということだった。八十歳になって

 も、わしは日に五合は欠かしたことはありませんよ、といっていた。その余滴を私

 がごちそうになったわけだ。今となって私は、平穏な死の値打ちについて考えるこ

 とも間々あるので、酒を汲みつつ上きげんでこの世を去った石神さんは特に印象深

 い。(「朝露を踏んで」)

 

      

        『流木集』(1986年7月、小沢書店)           『銀色の月―小川国夫との日々』    

                                      (2012年6月、岩波書店) 

 

 小川国夫との出会いから別れまで、創作の現場を間近で見つめ、支えてきた妻・小川恵による回想録『銀色の月―小川国夫との日々』(2012年6月、岩波書店)は、亡き夫を鏡にして照らし出される「私なるもの」を静謐な文体で追尋する「私小説」の趣を漂わせて、読み応えのある物語になっている。