稲沢市民寄席『古今亭文菊独演会』のこと   

 2024年1月6日(土)14:00から、「名古屋文理大学文化フォーラム(稲沢市民会館)」小ホールで「稲沢市民寄席『古今亭文菊独演会』」を鑑賞した。演目は以下の通り。
 

 

 自由席ながら、ひとり2000円で文菊が聴けるということで、昨年秋に先行販売でチケットを入手しており、老夫婦で孫を引き連れ、出かけたのであった。チラシを見ると、「名古屋駅からわずか10分! 「いなざわ」」と謳ってあるのだが、その脇に小さく「最寄駅・名鉄「国府宮駅」」と注記がなされ、「赤い名鉄電車」のイラストがつけ加えられている。「10分」の文字を素直に受け止められずにGoogleマップで調べてみたところ、JR「いなざわ」ではなく名鉄「国府宮」からゆっくり徒歩で15分ほどかかることが判明。これは老夫婦にとっては、いささかハードな距離である。急遽マイカーで出かけることと相成った。

 

 

 「つる」は、「知ったかぶり」と「根堀り男」との問答で構成される「根問い噺」の典型で、「猿真似」を演じて失敗する「鸚鵡返し」の噺。落語を構成する基本形とも言える。昔は「首長鳥」といった鳥だが、唐土(もろこし)の彼方からオスが「ツーゥッ」と飛んできて松の枝にとまり、あとからメスが「ルーゥッ」と飛んできて同じ松の枝にとまったのを見ていた白髪の翁が「ツールー=鶴」と命名した、というご隠居の話を鵜呑みにした男が、知識をひけらかすべく友人に説明をするが最後まで行き着くことができず、何度もご隠居の家へ戻って仕込み直すが、結局落ちをつけることができず、「メスが黙って飛んできた」で終わる噺だ。時折前座ばなしとして取り上げられる噺だが、今回は前座による「開口一番」がなかったので、結果的に文菊自身が前座を務めたような印象が残ったが、裏返ったような高音で、声量豊かに「ツーゥッ」「ルーゥッ」と繰り返したものだから、より滑稽味が増した。

 続く「夢金」では、冴え返る春の夜の寒さに握り何とかでわびしく独り寝している欲張り野郎の哀愁漂う様が切々と語られ、なかなかの好演であった。寝言にまで「二百両欲しい」と唸っている欲深な船頭の熊は、雪の夜、深川までの約束で屋根船を出す。妹と称する十七、八の身なりのいい女を連れた侍に「酒代をはずむから」と言われたからである。大川の途中まできたとき侍は、「女は妹ではない。癪で苦しんでいたのを介抱ごかしに連れてきた。七、八十両もっているから殺して山分けしよう」と言う。船を中洲につけて侍がおりたのを見届けた熊は、棹を逆に返して、再び川へ出る。侍を置き去りにして娘を家まで送り届けた熊は、下へも置かぬもてなしを受け、「ほんの酒代」と金包みを差し出される。その場で開くとなんと百両の金が。「なか百両ッ、しめたッ」とその金包みを確と握ると、あまりの痛さに目が覚めた。気がつくと、もとの船宿の二階で、夢の中で急所をしっかり握りしめていたという。

 仲入り後の「明け烏」は、廓話の代表的作品。年頃になっても堅物すぎて、父親の半兵衛を心配させている時次郎。町内の遊び人源兵衛と太助に、観音様の裏手にあるお稲荷さんにお籠もりに行こうと誘われる。お稲荷さんがどういう場所かを知る半兵衛は、「身なりを整えていかないと御利益がない」と着物を一張羅に着替えさせ、金を持たせて送り出す。文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などの髪形(あたま)に部屋着を着た花魁(おいらん)が右で褄をとり、厚い草履をぱたんぱたんさせる姿を目にした時次郎は、女郎屋に連れてこられたと気づき、あわてて、帰ると騒ぎ出す。源兵衛と太助は、「帰れるもんなら、お帰りなさい。だけど吉原には吉原の規則がある。一人でひょこひょこ出て行くと、怪しい奴だと大門の番所でとめられる」と諭す。時次郎の敵娼は十八歳の絶世の美人・浦里。「ああいう若旦那に一遍出てみたい」という花魁の方からのお見立て。翌朝、敵娼にふられた源兵衛と太助はブツブツ言いながら時次郎を待っているが、なかなか起きてこない。件の時次郎は、花魁とふとんの中で「けっこうなお籠もりで」などと言い合っている。呆れた二人が「先へ帰りますよ」とふてくされると、「先へ帰れるもんなら帰ってごらんなさい。大門でとめられる」。

 チラシにある「端正な語り口で粋な落語の世界を紡ぐ古典落語のスペシャリスト」という謳い文句通り、いずれの噺も見事であった。かつては、女の色気を出すのが上手い落語家だと思っていたが、近年はうぶな男が変容する際に漂う色気も見事に語り分ける。帰りの車の中で、「女と男の色気を語り分けることができて、文菊もイヨイヨ成熟期に入ったか」と独りごちていたら、「「イロケ」って、どういう漢字を書くの? どういう意味?」と孫に訊かれ、「青とか赤とかの「色」という漢字にいい気持の「気」という漢字を組み合わせて「色気(イロケ)」と読む」と説明したあと、「意味はもう少し大きくなったら自然と分かる」とお茶を濁し、言葉に窮するO爺であった。