辺見庸『もの食う人びと』を読む   
 

        

     『もの食う人びと』(角川文庫)     『新装版 戦中派不戦日記』(講談社文庫)

 

 近頃やたらとノンフィクション、ルポルタージュの類いを読んでいる。山田風太郎『戦中派不戦日記』(講談社文庫)・『同日同刻―太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(ちくま文庫)や『瀬戸内寂聴・永田洋子往復書簡 愛と命の淵に』(福武文庫)、竹中労『完本美空ひばり』(ちくま文庫)、山本夏彦/久世光彦『昭和恋々―あのころ、こんな暮らしがあった』、橋本治『ぼくたちの近代史』(河出文庫)など、心に残るものも多かった。おそらく、体系なき平成~令和の世を生きるぼく自身の中に、自分が遭遇した時代の諸問題を振り返りながら、〈昭和という近代〉の原風景を確認したいという思いがあって、O爺をこうした作品に向かわせるのだろう。
 今回紹介する『もの食う人びと』は、「自動起床装置」(『文學界』文藝春秋、1991年5月号)で第105回芥川賞を受賞した辺見庸が、バングラデシュ、旧ユーゴ、ソマリア、チェルノブイリ、フィリピン、ミンダナオ島など、世界の飢餓地域を彷徨い、ともに食らい、語らいながら、本職であるジャーナリストの眼で捉えた世紀末の食事情に関するルポルタージュである。ダッカの残飯、バンコクで製造される日本向け猫用缶詰、ジュゴンの歯の粉末、ドイツの囚人食、旧ユーゴ難民向け援助食料、アドリア海のイワシ、コソボの修道院の精進料理。ソマリアPKO各国部隊の携帯食、ラクダの肉と乳、ウガンダはエイズの村のマトケ、ロシア海軍の給食、チェルノブイリの放射能汚染食品、択捉島の留置場のカーシャ……などなど。「長年の飽食に慣れ、わがまま放題で、忘れっぽく、気力に欠け、万事に無感動気味の、だらりぶら下がった、舌と胃袋」が、時に震えおびえ、時に喜んで受け入れた、食いものや飲みものは数知れない。中には、残留日本兵の人肉食や、韓国人元従軍慰安婦の苛烈な食と生にまつわる記憶という見えざる食いものも含まれている。そのどれもが奇食には違いないが、確かな事実は、どこにも〈もの食う人びと〉がいて、〈もの食う〉ことの十分な理由を持ち、どこにも食うことと食えないこととにかかわる数多くのドラマが存在するということだ。そうした人間ドラマの一端に触れながら、「食とは生と死に直結する、というごく当たり前の道理」や「食いものの恨み」なんていう日本ではもはや死語同然の言葉に潜む「人間本来の、切ない食の相克」に思い至ったとき、〈飽食〉大国日本の民であるぼくたちは、食うことをめぐるこの国の過去の記憶と未来の姿とを明確に思い描くことになる。
 もう30年以上前の作品ではあるが、〈飽食〉の時代が〈空腹〉と〈飢餓〉の時代に転ずることの必然を言い当てた、見事なルポルタージュであった。そして辺見の予見は、今や現実のものとなっている。〈空腹〉と〈飢餓〉の足音に身震いしながら、今のうちに食いだめをするか、この本を読んでみるか、それはあなたの判断に任せよう。

 書物の記憶〈04〉

 辺見庸『もの食う人びと』(角川文庫、1997年6月20日、初版は1994年共同通信

 社刊) 

       

    『もの食う人びと』(初版・共同通信社)     『ロッパの非食記』(ちくま文庫)

 

 人は今、何をどう食べているのか、どれほど食えないのか…。飽食の国に苛立ち、異境へと旅立った著者は、噛み、しゃぶる音に耳をそばだて、紛争と飢餓線上の風景に入り込み、ダッカの残飯からチェルノブイリの放射能汚染スープまで、食って、食って、食いまくる。人びととの苛烈な「食」の交わりなしには果たしえなかった、ルポルタージュの醍醐味とでも言うべきものを味わわせてくれる、「食」の黙示録だ。連載時から大反響をよんだ感動の本編に、書き下ろし独白とカラー写真を加えたのが、この文庫版。初版は1994年講談社ノンフィクション賞を受賞した。
 なお、作家や文学者が〈食〉をテーマに書いた文章をまとめた文庫はかなり多く出されている。檀一雄『わが百味神髄』(中公文庫BIBLIO)、吉田健一『旨いものはうまい』(グルメ文庫)、『もの食う話』(文春文庫)、杉浦明平『カワハギの肝』(光文社文庫)、嵐山光三郎『文人悪食』『文人暴食』(新潮文庫)など。特に面白いのは、古川緑波『ロッパの非食記』(復刊ちくま文庫)収録の「非食記」(昭和十九年の日記抄)、「食日記」(昭和三十三年の日記抄)。これらは、貴重な昭和史の資料としても興味深い。食物に対する飽くなき執着心を見事に描き出している。

 

       

      『文人悪食』(新潮文庫)          『文人暴食』(新潮文庫)