「我が生涯に一片の悔いなし」

言わずと知れた、北斗の拳で最も印象的なシーンの1つ。
ラオウがケンシロウに敗れた後、この世を去る時のセリフですね。

さて、今回は人生における「幸せ」について考えたいと思います。

結論から言えば、僕は人生において幸せかどうかの基準は、「最期に納得して死ねるかどうか」だと思います。

一般的な考え方をさらっておくと、人生とは、
・一回きりである
・山あり谷ありである
・誰のものでもなく自分のものである
というのは間違いなく共通項でしょう。(輪廻転生の概念は保留とします)

そうなんです。死後の世界は想像しても分かりませんし、良い時があれば悪い時もありますし、誰に何と言われようと自分で決めて進んでいくものです。

世間一般で使われている「幸せ」というワードは、往々にして「自分の欲求が満たされている状態」を指している場合が多いのではないでしょうか。
例えば「いつ幸せと感じますか」と聞いた場合、
・美味しいものを食べている時
・家族と団欒している時
・仕事がうまく行った時
・相手が笑顔になってくれた時
・SEXしてる時
・寝ている時
などなど。

欲求には種類があると言われており、有名なものがマズローの欲求5階層理論です。
そして、それを満たすと人は「満足感」を得ます。

上の解答例にこれを当てはめると、例えば家族団欒は愛情欲求が満たされている状態、寝ている時は生理的欲求が満たされている状態、仕事がうまく行った時は自己実現欲求が満たされている状態、相手が笑顔になってくれた時も同様もしくは自己超越をして「他人の幸せが自分の幸せ」と言える状態。
何れにせよ、何かしらの欲求が満たされているときに、人は「幸せ」という「満足感」を感じるんです。持論ですが。

しかし、欲というものは一度満たされれば一旦は収まるものの、なくなるということはありません。抑えることは可能でも、なくすことは不可能でしょう。
ということは、人は常に幸せを感じながらも不満足を抱えている矛盾した存在と言えます。
そしてこの矛盾は、生きている限りずっと続ます。

では、「生きている内は不幸なのか?」と言われれば、それも違うでしょう。
人は生命を宿しています。だから生きるものは、生きることが「宿命」なんです。生きるには上述のような欲求を満たす必要があります。それを満たせば生きられるので、自分の宿命を全うしているご褒美として幸福感を得ます。これが日々、刻一刻と断続的に行われているのですから、不幸な人はいません。
どんなに辛いことがあっても、生きることを全うしようとしている限り、それは幸せへの努力をしている期間なんでしょう。
だから、「谷」にいるひとも、「山」を目指して「生きている限り」、幸せでありえるんです。

じゃあなぜ僕が、「幸せとは、最期に納得して死ねるかだ」と考えるのか。

死ぬ時って、若かろうが寿命だろうが、「もうこれ以上何もできない」っていう瞬間だと思います。ということは、自分の欲求を、何かの行為をもってして満たすことは不可能な状態です。

であれば、必然的に死の瞬間に頭をよぎるのは、走馬灯のように駆ける過去の記憶でしょう。
そんな時、「あぁ、もっとこうしていればな…」という悔い、つまり欲求の不満足感が残っていたら、死んでも死に切れないですよね?

死の瞬間に感じる、究極的な欲求って、「自分の一生に、満足できたか?」ということなんじゃないかと思います。
人は欲求を満たせば幸せである、とすれば、人生最後の瞬間に感じる欲求が満たされる時こそ、人生における究極的な幸せなんじゃないでしょうか。

「死ぬ瞬間に一生懸命、生を感じることができる」からこそ、僕は「死ぬ時に納得していること」が人生の幸せだと考えます。

そして、こう考えると、典型的な仏教の教えにある「煩悩捨てよ」というのは合理的です。
(煩悩とは、あらゆる欲求と僕は解釈しています)
日々の欲求満足水準を低くしておけば、お金や名誉がなくても簡単に「生きる」ことを全うできます。
死ぬ瞬間でさえ、そのように生きてこれたなら、多くを望まないので悔いはほとんどないでしょう。

それに、「死ぬ時に幸せであれば人生は幸せだ」と考えていれば、生きていく上での大抵のことは辛くなくなっていくと思います。

「あ、一生懸命生きてるから辛いんだな。頑張って乗り越えれば、悔いを1つ減らせるんだ。幸せになるための必要な時間なんだ。」

そう思えたら、だいぶ気が楽になりませんか?

大事なことなので2度言います。

最期の瞬間、あなたはラオウであれば、それで幸せなはずです。

「我が生涯に一片の悔いなし」

ですよ。