長くなってしまいました、お話会の記録の最後です。
おふたりのお話のあと、質問タイムがありました。
今難聴児を育てている人が多かったので、質問はどんな療育がおすすめか、何に気をつけて育児をしていたかなど、親目線のものが多かったです。
お母様がよく取り組んでおられたことは、絵日記だそうです。
繰り返すことで覚えるというのを実感されていたようです。
書けないときは、写真だけでも。
文字が読めるようになったら、文字も合わせて。
絵日記以外にも、部屋中に貼っていたそうです。
心がけていたことは、「体験させること」。
遠出したり特別な用意をしたりしなくてもいい、日常のささいなことをなんでも体験させる。
例えば、熱が出て病院に行くとか、お隣さんとのやりとりとか。
そして、「あなたはどう思う?」「こんな時どうする?」と問いかけること。
障害をどうやって受け入れたかという質問には、
「受け入れた…というより、心配性なので、どうしたらいいんだろう、何ができるだろうと考えて日々過ごしていたという感じ。」
とお答えになっていました。
ご本人が困ったとき、悩んだときの相談にはどんな風にのっていたかという質問には、
「親には言わず、友達に言っていた様子。」
「何か言ってきたら、聞くしかできないので、ただ聞くだけです。」
とのことでした。
悩み相談ができるお友達がいるって、親子ともに心強いですね…
息子にも、娘にも、そんなお友達ができたらいいなぁ。
そして、最後に。
「私たちの話を聞いて、うちには当てはまらないと思う方もいらっしゃると思います。
進路のことも、指導のことも、みんなそれぞれ違います。
今、色々なやり方で育児をされて、これでいいのかなと悩んでおられると思います。
何一つやって無駄なことはないです。
やってよかったと思える日が来ます。」
とエールをくださいました。
全体を通して、私が思ったこと。
こどもが障害を持っていたら、やっぱり子育ては大変だ。
(それでなくても大変だけど)
並々ならぬ努力をしても、「普通」にはならない。
はじめから違うんだから、どんなに似せようとしても違う。
でも、そもそも「普通」って何なのか。
私は息子にどうなってほしいのか。
「みんなと同じ」に近づけることがゴールなのか。
お母様がおっしゃっていた、「何一つ無駄なことはない」「やってよかったと思える日がくる」というのには、条件がある気がする。
「こどものためにしたことなら」、という条件。
息子に何かさせるとき、私がやってほしいからではなく、みんながやっているからではなく、人に良いと言われたからではなく。
息子にとってどうか…と考えてのことなら。
いつかよかったと思えるのかもしれない。
息子が小さいうちは特に、息子の意思を尊重することが難しい。
意思がないし、あっても言えないだろうし、なんでも要望を叶えるというのも違うし。
だから、息子を泣かせたり怒らせたり、恨まれることもあるかもしれない。
でも、私や、私の思う「普通」や「理想」に合わせさせることだけは、やらないようにしよう。
息子は私とは違う、ひとりの人間だから。
はじめから、同じじゃないんだから。
無理に同じにならなくていい。
諦めているのでも、悲観しているのでも、哀れんでいるのでもないです。
私基準の目で息子を見て、「できない」「足りない」になりすぎないように、気をつけようと思ったんです。
手話をするのも、絵カードを使うのも、「口話だけでは聴き漏らすから」ではなくて、ただ「息子ともっと話したいから」。
この先地域の小学校に進学させてみようと思っているけれど、それは「ろう学校に行かせたくないから」ではなくて、「息子にはチャレンジできると思うから」。
そんな風な気持ちで、あれこれやってみて、間違っていたら謝って、そしていつか、あのお母様とお子さんのように、笑い合える関係になりたいです。
ピンクの文字は、お母様とお子さんのお話の中にあった言葉をいただいた部分です。
…余談ですが。
「お前にはできない」「言われた通りにやっていれば損はない」「なんでこれができない」「だからお前はダメなんだ」と言われ続けて育った人がどんな闇を抱えるか、身近にいて感じるので
それもあって、娘と息子には、なるべくそんな思いはさせたくないなと思っています。
自分も周りも当たり前のように見えて聞こえて話せて動ける世界にいると、ついそんな世界がメインだと思ったり、たいていの人とははじめから同じものを共有できている(自分のものさしと人のものさしはだいたい一緒)と勘違いしたりしてしまいますが…
そんな私に、息子はいつも思い出させてくれます。
お母さん、
ぼくはぼくだよ。
ぼくの世界のことも知ってね。
そんな息子の声をこれからも大切にしていきたいです。