「忘れてほしくない」豪雨の被災者と、
その心に寄り添う…数えきれないほどに身を切り、
支援してきた羽生結弦の『伝えたい思い』が
掲載されました。
震災と、度重なる水害の熊本。
自分の足で被災地に向かい、
自分の目で確かめて、
自分の心で見る。
そして自分の声で語る。
羽生結弦の社会性とは、
こうした真摯なジャーナリズムをも
内包しています。
それは簡単なようで、
誰にもできることではない。
まして「羽生結弦」です。
それでも彼は、これまでも
こうした活動を続けてきました。
続けてきた、といえば、
自身も被災者である東日本大震災で
どれだけの活動を続けてきたのか。
7月25日に5588万1272円が
アイスリンク仙台に寄付されたと発表されましたが、
これまでの累計でも8733万406円、
私の個人的な単純計算では
4億円にも及ぶのではないかと
臆度します(寄付と称していないもの、
およそ明確でないもの含む、あくまで個人主観)。
そればかりではありませんが、
金額はとても大事です。
それによって多くの人が救われます。
そればかりではありませんが、
それでも多くの心もまた、救われます。
だから多くの国々ではハリウッドスターや
アスリート、ミュージシャンの
そうした人がとても称賛されます。
日本ももっと、
そうあって欲しいと思います。
そして、
羽生結弦がなぜこうした行為を続けるか。
多くの理由があることは寄付関係なく、
御本人の声にもありますが、
私は「忘れてほしくない」が
心に響きます。
東日本大震災の記憶も、
熊本の豪雨も、
多くの事件や事故といった
社会の出来事に風化して行きます。
しかしそこにいた人間は風化しない。
生きる人も、生きたかった人も
風化しない、風化させない。
そうした羽生結弦の
「忘れてほしくない」もまた、
多額の寄付に繋がっているのでしょう。
プロになってから、数多のしがらみも消え、
寄付などの羽生結弦の活動が
以前よりは伝えられるようになりました。
羽生結弦の「忘れてほしくない」という
行為についてもまた、
プロ転向(羽生結弦は意識として
すでにプロでしたが)は成功なのでしょう。
もっとも、羽生結弦という存在にとって
しがらみなど取るに足りないことで、
「自分のなしうる限りを」
(ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』)という
一途で前のめりな思い、ただそれだけなのでしょう。
だって、普通しますか?
重ねますが、それは簡単なことではありません。
誰だって将来を考えたら、
お金はいくらだって欲しいんです。
新人だったら将来は不安です。
競技時代も活動費はいくらでも欲しいんです。
プロ生活はもっとお金がかかります。
そんな時代すべてに羽生結弦は
こうした行為を続けてきた、
それは本当に簡単なことではありません。
だから、私もこうして何度でも書きます。
「活動費も少ない時代から私財を投げ打ち、
誰に言うでもなく、何の贅沢をするでもないジャージ姿の偉人」
なあ月よ、
なんて気持ちのいい星なんだろう。
日野百草
※羽生結弦論、連載中