民話や中世の騎士道物語からアイディアを汲み取って華麗で寓意に満ちた現代文学に仕立てあげたカルヴィーノの代表作『我々の祖先』三部作の、第一作目

現代文学というと肩肘はりそうだけど、カルヴィーノに関してはそういう気構え一切0で問題なし。よくできたファンタジー物語を楽しみながら、人間の不完全さゆえの完全さへの希求や自我の分裂状況、善と悪の問題といった近代/現代的な主題をシリアスに示唆する超高密度の小説です


この小説の面白いのは、前半は悪の半身の悪行三昧が描かれて、後半から善の半身が返ってくるんだけど、この善の半身にも問題があることが暗示されてるとこ


この善の半身は、悪の半身に処刑器具や拷問器具ばかり作らされる大工に、オルガンの機能も持ちながら、貧乏人のために粉をひく水車の用も果たし、しかもパン焼き機能や害虫駆除、移動まで備えた一種の完全機械を作らせようとするんです


でもこの大工は聞いてもいまいちイメージがわかない。なのに悪の半身から頼まれる拷問器具は少し話を聞いただけで何を作ればいいかすぐわかる。完璧に作ることができる

そう考えると悲しくなるんですね。『もしかしたら善い機械をつくることは人間の力を超えているのではないか、と疑うようになってしまった』

『「もしかしたら、わたしの心のなかには悪の巣があって、そのためにこのように残虐な機械ばかりをつくってしまうのではないだろうか?」』

また、善の半身は、世の中から離れて暮らす厳格な異端の戒律主義者たちに、一方でその境遇に同情しながら、貯蔵してる穀物をなぜ貧乏人のために安く売らないかと糾弾する。退廃的な生活を送るらい病患者たちに、神経質に説教をする。このことから、非人間的な悪徳と同じくらい、実は非人間的な美徳もまた危ないんじゃないかって示唆される。これはファシズムの問題が背後にある気がする。カルヴィーノはファシスト勢力と戦ったパルチザンの兵士でもありました


訳者の河島さんによると、らい患者たちの<きのこ平>は、世の中から離れて自堕落な生活を送る芸術家の集まりを象徴してるとか


この本が書かれたのは1951年、まだ大戦の傷痕冷めやらぬ時代です

メルヘンチックで軽めに読めるストーリーに、近代と現代の問題を寓話的にぶちこんで、しかも文学オタクとかじゃなくてもものすごく面白い小説に仕上がっているっていう意味で、いかにもカルヴィーノらしいですね