こんにちは
小学校高学年のころの将来の夢は“社長”になる事でした。
なぜなら・・・・社長はお寿司が食べれる身分だからです。
しかし今は当時なかった回転すしという庶民の味方がおりますので、社長にならずとも寿司は食べれるようになりました。
ここで豆知識。
実は回転すしの歴史は古く、昭和33年に大阪に登場したそうです。
ワタシが生まれる前からすでに回転すしはあったんですね。
そして昭和60年代以降、首都圏に爆発的に広まり始めたそうです。
将来の職業についてですが、中学、高校時代は社会のことを少しずつ知りはじめ、色んな仕事があると理解します。世の中の全てのことは職業になりうると思い始めるわけですが、特段気になるものもやってみたいものもないし大都会に住んでいた私には情報量が多すぎてイメージすら湧かない状態でした。
しかし漠然と“平凡なサラリーマンは嫌だな”という気持ちはありました。昔から普通を嫌う変な子供だったんです。安心・安定よりも自分の心の針が振れた方向に生きたい派でした。
このころはオシャレに大変関心がありましたが、アパレルは一生働く仕事とは違うなあと感じていました。
同時に料理に関して興味がわいてきた時期でもあり、高校生になって料理屋さんでアルバイトするようになりました。
就職とか先のことまで考えていたわけではないですが、この料理に携われるアルバイトは非常に楽しく高校1年生から就職する直前までの7年間働かせていただきました。
好きな料理にかかわれてお金までもらえるんだ!
おかしなお客さんや面倒な社員もいたりするけど、ずっとこの料理の世界に身を置きたいなと高校生だった私は思うようになっていったわけです。
という事で「俺の職業は料理人だ!」と決めたわけですが、思わぬ「まった!」がかかります。
父親でした。
ある日、父から将来のことについて聞かれたことがあり「料理人になりたい」と答えましたところ、「料理は趣味でもできる。就職は収入にこだわったほうが良い」と言われました。
ほほう。なぜだい?
自分が社会人になった時に後悔しないよう、先輩社会人のいう事にはきちんと耳を傾けようと思い真面目に聞きます。
父が言うには、「家庭を持った時に家族に豊かな生活をさせてやるには、一番重要なのは経済力だ。子供ができるとにかく金が必要になる。」という事でした。
父は子供に勉強を押し付けず自由奔放に育てる方針でしたが、母が当時流行の“教育ママ”で中途半端に成績の良かった私はことさら期待され、塾ならなんやらと習い事を色々させられました。
塾・家庭教師・英会話・スイミングスクール・剣道。
我が家は決して裕福ではありませんでしたので相当な負担だったと思います。両親にはとても感謝しますが、あまり役になっていませんよ。(ゴメンね)
でも、やってて良かったとは思っています。(剣道、超強かったんですよ)
そして父は職業についてこういいました。
「今は建設業はとても景気よく、今後も伸び続けるだろう。大手建設会社なら給料も良いから勤めて損はない。お前は手先も器用でものつくりも得意だから建設業なんかどうだ?」
へー、そうなんだ。じゃあ、建設業にするよ。(てきとー)
という感じで進路変更。
根が貧乏人なので高収入という響きは大変魅力的に感じました。身長は高い方じゃないので収入くらいは高いものを得たいぞと。
そしてうまい事やってトントン拍子に大手建設会社に就職したんです。
高校卒業してからはかなり努力しましたよ。
全く興味のない世界だっただけに、勉強がついていけなくて・・・・寝る間も惜しんで必死に勉強しました。人生の中で最も勉強した時期だったと思います。
次に頑張ったのが、1級建築士の資格取得の時でしょうかね。
就職してからが本当の頑張り時なわけですが、プロの工事現場について何も知らないまっさらな時期は、大変さと面白さが半分くらいだったと思います。
経験を重ね工事や社会の仕組みが分かってくると、徐々にこの業界に対し気持ちが冷めていくのを自覚するようになりました。
毎日出勤するのですが冷めていく気持ちの後を追うように「オレ、やっぱこの仕事に向いてないなぁ・・・」と事あるごとに思うようになり、やがて心を病み4か月間休職し内勤に配置変更。
内勤はとにかく気楽でした。
常に何かに追い回される恐怖感がなく、じっくり納得いく仕事ができました。
定時出勤の定時退勤。
土日祝日はきちんと休めて家族と過ごすことができます。
現場手当が無くなる分収入は減りましたが、あんな苦しく大変な思いから解放されるんだったら収入減っても内勤が良いわっ!
そう思っていました。
しばらくの間はね・・・・。
内勤は楽なのですが、仕事に目標を立てにくく退屈だなあと思い始めるように。
張り合いが見いだせなかったんです。
かといって現場勤務はゴメンだよ!(わがまま)
そんな時ある部署の手伝いをすることがあり、その部署の業務はちょっと異質で私にはとても興味深く感じました。
それは、解体工事でした。
建設会社なので建物を作るのは当然なのですが、壊す方もやるんです。ただ、社員は圧倒的に新築工事をやりたがります。
そりゃそうです、建物を作りたくて建設会社に入社したわけですからね。
解体は不人気なので、私にとってこの出会いはチャンスだと感じました。
その部署はすぐに解散させられてしまったので、解体工事を教えてくれる人は誰もいません。
すべて独学で知識を学び技術を身につけていきました。
教えてくれる人がいないという事は、私が教える人になれるという事です。つまりこの会社において解体工事に関して私は唯一無二の存在になれると気が付きました。
この時まで安易な理由で建設業に就職したことを心の底から後悔していました。
色々な事象が私の主義思想に反しており、逃げる事ばかり考えてた自分に言い訳ばかり言い聞かせ自分を正当化させ、ホントにやりたい仕事じゃなかったから頑張りも続かず踏ん張りもきかず・・・・やっぱり好きな道に進んでいればもっと頑張れたはずだと。
しかしですね、転職できない理由があったんです。
父が言ったように、大手ゼネコンの給料は確かに良かったのです。(当時はバブル景気)
所帯を持ったのも早く、子供も3人おり、趣味も多く家も購入していましたので、私のワガママで収入を目減りさせるわけにはいきませんでした。私自身生活レベルを下げることは絶対にしたくありませんでしたし、私が我慢すれば家族全員今まで通りの幸せな生活が保障されてたので転職という事に対して強烈なブレーキが掛かりました。
そして病気になり結果として解体工事と出会え、今はこの業界でも勝負できるという気持ちがしっかりあります。底辺でみじめにグズグズ燻ぶっていた自分とは完全におさらばできました。
そしてぬるい内勤とは決別し、今は現場勤務でハードボイルドに生きています。
社内でもまあまあ認知されてきましたし、私の技術を求めて全国から声がかかり今は各地を転々と渡り歩いています。会社員人生としては完全に終盤ですが、活躍できる場が持てて良かったなと思っています。
本当は家族と一緒に暮らしたいのですが、やっと手に入れた活躍の場なので体の動く限りは自分の尊厳のために全国の舞台で頑張っていこうと思います。
出世ばかりが華ではありません。
求められてこその存在意義だと思います。
自分で選んだ世界においても目の前のことが本人の適性に合ってるとは限りません。“好き”と“出来る”は違うと思いますし、目の前のことをできないからと腐る必要はなく、答えを急がす辛抱強く探し続けてれば自分が納得できる答えは見つかるんじゃないでしょうか?
諦めちゃダメです。
投げやりになってはいけません。
成果は上げれなくても必死な姿は伝わります。
下ばかり見てないで、顔を上げて笑顔で進みましょう!
自分にとってこの業界が不向きだと思い、頑張り切れない自分をなぐさめスッキリしない毎日を過ごしてましたが、今はやる気に満ちています。解体工事は私にとって完全に“向いてる”ジャンルだったと思います。
向き不向きはすぐには分かりません。
物事の見える範囲だけで結論付けず自分の置かれている立場や状況に腐らずに、親しい人に愚痴を吐きながら広い視野でゆっくり気張らずに周囲を眺めてみてはいかがでしょう。
ちょっとした変化にチャンスは隠れているかもしれないし、何気なく吐いた不満や希望の声がひょっこり転機に変わるかもしれません。
何かに不満や納得いかないモノがあるのであれば、自分向きの何かを探し続ける意味はあると思いますよ。
今でも時々考えます。
好きな料理の道に進んでいたら相当な苦難にも耐えられただろうけど、今のような生活はできていただろうか・・・・。
神のみぞ知る事ですね。
私は今の状況に十分納得しています。
理想論かもしれませんが現に私は人生変わりましたので、あながち胡散臭い話でもないと思いますよ。
はい、今回はこれで完結です。
またお会いしましょう!
しーゆー♪