「東浦自工」と聞いても近畿地方のバスファン以外では馴染みのない方が多いのかもしれない。近畿圏では1960年代では割と名の知れたコーチビルダーであった。かくいう私も書籍や資料で東浦という車体メーカーがあったのだ・・という知識だけで実車は見たことがなかった。

 それもそのハズで1960年代中ごろでバスの架装は終了していたので、元々地域柄関西ローカル的な架装メーカーゆえ、生産台数も爆発的に出たわけでも無いので、物心ついた時には廃車体ですら見ることが無かった・・。

 これは兵庫県の事業者、全但交通(現:全但バス)の廃車体で撮影は今から20年以上前のこととなる。とある民家の二階に屋根から突き出したような形で鎮座しており、腕木式方向指示器も残った廃車体で、後に知ったが好き者にはそこそこ知られている個体らしい。当時私も知人に教えて頂いてから現地に訪れ、ご主人に見学を申し入れたところ「ご自由にどうぞ」と言って頂けた。但し「屋内から入れないので、そこの梯子使って上がってな」とのことで、昔のガキ大将よろしくエッチラオッチラ登って割れた窓から車内へ入らせて頂いた。車内は座席は取り払われていて倉庫であったが物がぎっちりでは無く余裕があった。

 一番見たかった銘板はどうやら先客がいたらしく欠損しており、日野ジーゼルという銘板しか残っていなかった。

 それから10何年か後に、この車は貴重な現存する東浦車体であることがひょんなところから情報を得た。また当時ポピュラーであったBD14?らしいということも・・。

 当時はフィルムカメラであったのでこの3枚だけだが、デジカメならもっとたくさん色んな写真を撮っていたであろう・・。なお、嬉しいことに現存するらしく、ゆえに背景を隠しているのでご了承頂きたい。

 この「東浦」、「東芝」は東京芝浦電気の略称であるのはご存知の通りであるが、こちらは単純に創業者の苗字そのままである。コーチビルダーとして全盛期の頃は、西工や新日国とも提携していた関係でパーツ流用で例えば西工パーツ使用の車は西工製によく似たスタイルのバスに仕上がっていたので、私は写真だけでは見分けが付かなかった。

 また1960年の一時期「東新自工」を立ち上げ?東新ボディ製のバスも登場している。余談だが、とある東浦製バスの新車完成写真のバックに東浦自工と書かれた社屋が写っているが、数年後には同じ建物で文字が「東新自工」と書き直された写真も存在するので、実際に東新自工は存在していたことが分かり、当方の所有する資料でも「東新製」バスの記載が見られる。ただ、その時期に「東浦」と「東新」が併売されていたかどうかまでは勉強不足で分からない・・。

 前述の通り、1960年代中頃にはコーチビルダーを止めているが、その後は完全撤退では無くバスの各種改造を手掛けている。

 この図面は、とある事業者の貸切→路線化改造のもので、金沢製の車を東浦で後ドアを付け、ワンマン化改造した際の物。1970年代にはあまり名前が表に出て来なかったので、てっきり過去の会社・・と思っていたが・・

 別の資料では路線バスの非冷房→冷房化改造でも東浦の施工が確認された。この図面の日付け、1984(S59)年でもお分かりの様に近年でも操業していたことが分かる。

 私は手持ち資料をゴソゴソしていた時に偶然発見したものであるが、幻の「東浦自工」がつい最近までバスに携わる仕事をしていた記録を見つけたことに「大発見」とばかり思った記憶がある・・。

 今はどうなっているか詳しくは知らないが、高速有鉛という書籍の51号(2016年6月号)の中に東浦自工の関係者と対談している記事が発表されていることから、つい最近でも会社は残っていたのではあるまいか?と推測している。

 

 冒頭の全但交通、据え置き場所が場所だけに簡単に降ろすことはでき無さそうだが、いつか何方がサルベージされるのであろうか・・。

 

※参考文献」高速有鉛51号(2016年6月号)、内外出版社