新年早々世間では未曾有の大災害や事故続きで少々気分が滅入っている今日この頃・・は私だけでは無いと思う。特に震災はリアルで阪神淡路大震災を経験しているので、今回のあの光景は目の前で見て来た様子が強烈に思い出されて胸が痛む・・。

 

 そんなわけでおめでたい言葉は控えさせていただき、本年初投稿は表題の如く阪神バスの話題。今般、直営電鉄時代から運行、それも北大阪軌道線の代替バスも含まれる大阪ローカル線が来週のダイヤ改正でついに休止(恐らく事実上の廃止・・)と発表された。昨今の運転士不足も要因の一つであるが、近年は乗客数も伸び悩み、ダイヤ改正の度に便が減り最晩年となる今では土休日の早朝1本のみ・・という所謂免許維持路線的扱いであった。

 私は直接沿線では無いので、普段馴染みが無いのであるが、機会あれば阪神野田バスターミナルで撮影はしていたので、そういう意味では一抹の寂しさを覚え、今般例によって車両写真中心であるが書いてみた。

 初回はまだまだ元気のあった同線を走っていた「銀バス」の頃をまとめてみたい。

 先に述べた阪神の北大阪軌道線では野田-天六(天神橋筋6丁目)間となるが、生憎手元に当時の軌道線写真がなく、車両としては同じ軌道線の甲子園線の写真を流用させて頂く。有名な金魚鉢と愛称のあった201形である。私は世代的に見ている年齢であるが、居住地の関係で写真や書籍でしか知らない電車たちである。余談であるが、軌道線の写真はネットや書籍でたくさん拝見出来き、私はそれらに写り込んでいる阪神電鉄バス(や当時のタクシー)を目をサラの様にして探究を深めている。この写真もその内の1枚で趣味の大先輩芦屋のT氏から頂いた物。バックの銀バスは3-214号、いすゞBA-西工である。ナンバーは「神戸2き32-03」で割り当てナンバー時代阪神枠では「神戸2き32-01~33-01~」が確認出来ている。下はバスの拡大でBAの丸いリアエンジンルーバーや西工の側面窓下両隅のRが懐かしい。

 それでは以下は私の撮影している大阪ローカル線の行先を表示している車両たちである。

 いずれもS49年式ふそうMR450-三菱車体で、長尺の450形は近隣事業者では淡路交通辺りしか記憶がない。軌道線代替車両で大量に導入された一群とのことで、当時は旅客も多かったのであろう。このMR450の同期では神戸ナンバーもいたが、ふそうは晩年そこから再登録された「なにわ」ナンバーもおり、写真の元々の「大阪」ナンバー車含めて大阪所属車の方が多かった印象である。個人的には「天神橋筋六丁目」の方向幕は当時これらふそう車のイメージが強い。当時この野田阪神(阪神野田ではなく、何故か昔から野田阪神と呼ばれており、京阪電車の三条京阪も同様で趣のある地名呼称である)ターミナルの直ぐ北側が車庫だったため、か「回送」表示は少なく「野田阪神」「天神橋筋六丁目」表示のまま佇んでいた車が大半であった。

 前後折扉であるが関西地方の特徴である前後ドア車は贔屓目もあるがやはり格好良かった・・。

 こちらは尼崎浜田車庫に佇む日野の銀バス、2-304号(右)S52年式RE121-日野車体と3-492号(左)S51年式、同上である。元はどちらも神戸ナンバーで新規登録されている。最晩年に野田車庫に転属「なにわ」ナンバーに再登録されたが、社番の「2-(尼崎)」「3-(西宮)」まではリペイントされず、この部分は当時1980(S55年式)年以降の新車は表記を止めているため、既に表記としての意味はなされていなかった。かといって在来車の塗り潰しも殆ど行っていなかったので、転属しても元の所属が分かり趣味的に面白かった。ここまでの写真、撮影はいずれも1986年。

 続いて野田阪神~阪神杭瀬駅北を結ぶ系統の表示。こちらの系統も同じ改正で休止となり、野田では「阪神杭瀬駅北」表示は見られなくなる。生憎同系統の営業中写真がなく、この項2・3枚目はいずれも宝塚~阪神杭瀬駅北の系統であるが、方向幕文字自体は同じなのでご了承頂きたい。

 阪神バス独特ともいえる方向幕の表示形式で「阪神杭瀬駅北」のうち「阪神」の文字が小さいのが面白く、かつての国道線の「神戸三宮を経て税関前」幕文字表示方に通ずるものがある。写る車は1番上が2-486号、S49年式日野RE140ー金産コーチであり、これも軌道線代替車両の一群でやはり長尺のRE140が選ばれている。写真の様にこのグループも数台が大阪に転属し「神戸」ナンバーから「なにわ」ナンバーに再登録された。次はS54年式(2-)311号、RE121-日野車体。新車時は車庫所属表示はペイントされていた模様であるが、私の知る頃は消された様で見当たらない。

 続いて同年式のふそうMP117M-西工で(2-)612号。阪神ではふそうの三菱標準車体は先のMR450が最後で以後近年まで西工を積んでいる。西工78MC(53MC)架装の銀バスはこの同期の数台だけで以降は冷房車カラーともいえる現行のアイボリー/スカイブルーである。撮影は一番下が1989年であるがそれ以外は1986年。

 なお、軌道線代替車両のS49年車はその後経年で廃車も進み、撮影翌年の1987年頃には残りの仲間も揃ってお役御免となり退役していった。

 これは私が撮影している数少ない風景絡めての写真。上が1991年で中津付近。下はつい先ごろ2024年1月撮影した中津付近。定点撮影したつもりであったが、2024年散策時に昔の写真を持ち忘れたため、場所が数百メートルずれていた・・。上は大阪市バス(当時)の中津営業所前で、バス停標柱で阪急バスの「中津浜通」も見える(現在同地点の反対側の標柱は頭の円盤が撤去され「休止中」の張り紙あり)。下はその数百メートル南東で走って来た大阪シティバスを入れてみた。なお、二枚の写真の赤矢印は恐らく同一と思われるビルである。それにしてもバックに高層ビルが林立されていながらこの界隈は雰囲気が昔から変わらず、よい対比写真となるが、定点位置ずれは痛かった・・。(汗;)

 「銀バスの頃」最後は野田阪神バスターミナル今昔。上は1991で写る銀バスは銀バスそのものが最晩年で新塗装とのツーショットを苦しいながら撮っていたもの。この頃は再登録の日野車が多かった。下は1996年のほぼ同じ場所。バスの止まっている位置は同じなので、少し西寄りからの撮影である。上の写真ではターミナルのバックでは再開発工事進捗中で左側に建設中の建物や万能塀が見えるが5年後の写真では立派なデッキが写り込み別の場所の様である。このデッキは元の野田車庫跡地が電鉄本社とショッピングモールに大変身、それらを結ぶ物。

 因みにこのバスターミナルは元軌道線の駅で今では想像も付かないが奥に留置線もあった由。今その辺りはバスの留置スペースになっているのが名残と言えば名残りであろうか・・。

 次回このシリーズは「新塗装の頃」を予定している。