昨年から取材を進めている神戸市バスの「旧70系統:神戸駅=神明多聞(しんめいたもん)」の一環で全線を数日に分けて走破、多聞側の西岡橋(にしおかばし)周辺も散策した。その際に「そう言えば昔この近辺で山陽(電鉄)バスも結構撮っていたよな~」と思いだし、定点撮影を試みた。
※車庫に向けてのカットは全て敷地外道路からの撮影。

○山陽バス

 上が1983年春、下が2022年春。山陽バスの貸切車庫が小束山(こづかやま)に移ってからか、屋根付きブースも路線車の塒になっている。車庫の雰囲気は全く変わっていないがバックのマンションが無くなって、病院の立体駐車場と増築された病院施設になっている。この病院も当初に比べてかなり大きくなった。
 並ぶ観光車は当時最新の新塗装のフルデッカⅡが登場しているが、まだエアロ登場前。更に経年の西工平屋根が手前と奥に写り込んでいたりする。またこの並びは手前の西工を覗いて年式順に整然と並んでいるのである。2022年撮影分は上手い具合に山陽電車6000系車両塗装も留置中だ。

 上の場所から反対方向を見たところ。事務所棟は基本昔から変わっていないのと、車両留置の様子も大きく変わらないが、下の写真では洗車機が登場している。この車庫、子供の頃から何度も訪れ、外から飽きるまで眺めていたのだ・・・。

 下の段の車庫を東向きに見た様子。近年新たに建物が増築されている。上の写真の頃は路線車はいすゞオンリーであったが、近年はそうでは無く、ふそうも入り、この写真にも日産デ(西工)が写っている。

 上の段の車庫を西向きに見た様子。手前側は昔から2系統の時間調整場所で今も変わらないようだ。上のワンツーマン車は山陽退役後に京都の加悦鉄道(当時)に嫁ぎ「京22か39-60」となった。

 この2枚は若干距離的に定点になっていないがご了承を・・。3534号の写真は丁度キュービックが出て暫くした頃の1986年撮影。塗装パターンが同じなので、一瞬時代背景が同じように感じた。

 2系統の乗り場を出発して舞子墓園方面へ向かう構図。エルガのシャッター切るのが一寸早かった・・。手前の病院の建物を大きく変わらないが下の写真では奥に建物が増築されている。

 多聞町大門(たもんちょうだいもん)交差点。上はモノコックも新塗装となった1995年の撮影。下は交差点名看板も大きくなって分かりやすくなった。上の車の方向幕回送表示は黒だが、当時朱色の「回送」文字が褪せている車が多かったので、後年黒文字幕に換装された車両が散見された。

 

○西岡橋界隈

 地名やバス停名で知られている「西岡橋」はこの写真に写る小さい橋。1963(S38)年3月竣工の銘板が装着されていた。かつてこの辺りも第二神明のインターチェンジがあったことが旧い地図と語り部によって分かっているが、私が育った1960年代後半でも既にインターチェンジはなく、その情報を見聞きして驚いている次第。今回旧い地図を頼りに散策したが、川沿いの一部の一般道は当時の痕跡があるもののインターチェンジ痕跡は全くと良いっていいほど見あたらず、地図では奥のマンション辺りからインターチェンジに上がる道路が付いているようになっていたので、開発で綺麗に痕跡が消えたモノと推測する(と言うか、この界隈の一般道の様子に関しては私の知る1960年後半当時のままの佇まい)。そして写真内赤丸の位置には・・。

 上は2022年の撮影だが、少し拡大すると下の写真の辺りになり、このようにマツダの3輪トラックが転がっていた。この写真も1986年撮影で当時でも中学生に取ってはビックリ案件であった。奥の側道橋脚が変わっていないのが分かる。この場所は昔から大きい自動車整備工場があるので、このトラックも廃車体ながらそちらの所有だったと思われる。

 その西岡橋の東側の袂には解体屋が盛業中で私のような車好きにはここも眺めていて飽きなかった。で、この場所に1983年末頃、当時いつも利用していた馴染みありすぎの明石市バスの廃車がやって来て暫く鎮座していた。明石市バス最後のワンツーマン車でS46年式RE100、金産コーチ。1983年晩秋に最初の西工58MCと交代して廃車になった個体。この2枚は全く同じ場所からの撮影で下の写真の赤丸部分に明石市バス、青丸部分にポーターキャブが止まってことになる。バス後方のオレンジ色の庇のマンションは今も残る。

 その解体屋は西岡橋の下を流れる山田川沿いにも敷地があり、今の舞子線のバス道で西岡橋バス停手前の坂の始まりの左分岐の斜めの道(これは実は旧道で上写真でいうと神姫バス表示のオレンジの丸の左側、写真真ん中の正面に通る道)と川の間が敷地であった。上の写真のオレンジ丸部分に神姫バスのMAR470と思われる1303号がかなり長い間鎮座しており、川の反対岸からいたずらっ子は石を投げてよくバスに当てていた。そのせいでガラス窓はほぼ破られていた・・。またこの斜めの道は前述通り今の舞子線バス道の4車線道路が出来る前の旧道で、今は西岡橋へそのまま抜け道になって残っている。下写真は解体屋の晩年で川沿いから動かされ敷地内にあった神姫バスで前述の旧道沿いから撮影出来たので撮っている。この写真を撮った頃は積んであった廃車の解体もかなり進み、その後暫くすると移転したのか廃業したのか不明ながら、バスも解体屋も綺麗サッパリなくなっていた。ここの解体屋には何度かバス部品払い下げ譲渡依頼を持ちかけたが、中高生(子供)の言うことゆえ全く相手にして貰えず、結局何も買えないまま、写真の神姫バスも上の項の明石市バスもほどなく鉄くずになっていった・・。