さんかくの外に出る、かつ、やおい論の記事です。

 

 

 


悪魔崇拝者たちに男性の同性愛の性行為が多いというのはずっと見ていて知っていた。
彼らは子供時代に悪魔崇拝とそれに適した人格を作るために、虐待の一環としてそれを行っていて、人格を解離させ人を虐待しても何も感じないよう馴致されていく。その方法のひとつが男性同性愛の性行為なのだそうだ。

あの人たちは女性の生殖の力を一番嫌っていて、それを貶めたいんだなとつくづく思う。
彼ら同士の行為はこちらとしてはどうでもいいのだけど(神に対する厨二病か)、子供やか弱い存在にこれを強要して虐待するので、そこが問題だと思う。他人を犠牲にするなと。

彼らの行為がどうして腐女子の志向と一致するのだろうと、腐女子の私はずっと不快な思いを抱いていた。
腐女子は「虐待<愛」だろうけれども、彼らの行為と腐女子の妄想が相似形を描くのはなぜだろうとずっと不思議に思っていた。

女というジェンダーの嫌悪感により、性から自分の身体を消すのが腐女子だ。
それは家父長制に従順な「長女の娘」的なポジションでもある。
権威的な父親に過剰適応することで愛される「長女の娘」。
父親に従う母親のようにはなりたくないと思った娘が、虎の威を借る狐のように父親の庇護を得て母の女性性を貶め、「名誉男性」のポジションを得る。

本来「長女の娘」の敵は権威的な父親と、そのシステムを維持する社会である。
システムへの疑問・苦痛とアナーキズムとして生まれたやおいが、毒性を薄められ「真実の愛」のヴァリアントとして社会に取り込まれ牙を抜かれていくさまを、私は複雑な思いで見ていた。

「ありのままの自分の存在が認められない」

この社会――家父長制の「愛と呼ばれるもの」がずっと嫌いだ。
社会は母親の愛を「無償の愛」として賞賛するが、それは自分と血が繋がっているから愛するという、きわめて物質的・条件付きの愛ではないか。
母親を自立できない弱者とするために、か弱い子供を育てるよう育児を押しつけ、父親が家族の権威として君臨する。
「無償の愛」とは彼らにとって都合のよいおためごかしではなかっただろうか。

子供はこの世にありもしない「無償の愛」を求めて苦しむ。
その逃避手段のひとつが、少女によるやおいだった。

「無償の愛」を得る方法は、自分が他者に「無償の愛」を与え続けるその先にしかないのだ。
私たちは自分が他者を「愛する技法」を学ぶべきなのだ。
「愛される技法」「もてる技法」ではなく。

この鬱屈を私は長年自分の女性性を貶めてきた苦い思いとともに抱えている。
自分が愚かだったと後悔しながら、自分の女性性をどうやって肯定していくか悩んで生きていくだろう。

あの人たちのことは知らん。勝手にしろと思う。
これからの社会が「弱さ」「強さ」によって待遇を変えられることがないよう、かつて弱者であった私たちは新しい体制を作って生きていくべきだ。
私は、強者と弱者が同じように自分らしく生きていける社会を作りたい。