こんにちは。
題名の福田さんとは衆議院議員の福田衣里子さんのことです。先日たまたま読んだ記事に感銘を受けたので、ブログを書いています。
彼女は小さい頃に受けた薬によってC型肝炎になったそうです。この病気は副作用もきつく(例えば口中に口内炎ができるそうです。)、ガンを発症するケースもあるとのこと。きっと議員となられた今も病気と闘いながら、政治の世界でも闘っておられるのだと思います。(と書いたあとで実は「完治している」ということをインターネットで知りました・・・。)
その彼女の記事がある雑誌に載っており、その中で彼女が「この病気になったことでの自分の人生における意義を見出すことに尽力した。」というようなことを言っておられたのです。病気に対して悲観的になったり、国や製薬会社に対して恨みを抱くのではなく、又宗教的な観念や、「これが私の運命だ」という受け身的な意義の見出し方でなく、実践的な意義を見出す。これはなかなかできないことだと思います。とても強い精神力の持ち主だと感心してしまいました。
私自身、子育てとフラメンコを踊り続けることで毎日いろいろ考えながら生活していますが、漠然と考えるのではなく、直接的に社会に還元できる「意義」の見出し方をしよう、と思いました。それは思考にとどまることなく(頭の中で考えることは重要ですが)、実行するということです。また、「ぜひ子供にもこのように前向きで、逆境にも強い精神で立ち向かえるような子どもに育ってほしいなー。」と思いました。(すぐ子供に結びつけてしまう・・・)

ところで政治に絡んでもう1つ。今、事業仕分けの問題が話題になっていますが、「科学技術」への事業・研究費が大幅に削減される仕分けがなされました。
その事業仕分けの現場で、れんほう議員が「それは1位でなくてはいけないのでしょうか?2位ではだめなんですか?」と言っていましたが、その発言には失望してしまいました。
先端技術における国家戦略や国益の問題に詳しいわけではないですが、今のパソコンにしても、日本は最先端の技術がありながら、国の対応が悪く、米国に市場をとられた歴史があるんですよね?そう考えただけでも1位と2位以下は天と地ほどの差があると思うのですが・・・
身内に先端技術を研究している者がいるので、益々ここへの関心が強くなってしまうのですが、彼は自分の研究のこれからよりも、国の将来を心配しています。今までの日本の最先端技術が凍結してしまうだけでなく、多くの有能な研究者が海外へ流出してしまうかもしれないというのです。国が理解してくれないのなら、いったい何のために、誰のために研究しているのか、と科学者たちは研究するモチベーションを失うと言っていました。つまり、自分の業績や研究成果だけを追っているのでなく、日本の科学者の多くは国のことを考え、働いているのではないでしょうか?そういう方々に対して恩をあだで返すような政策のような気がしてなりません。また、こういった先端技術が50年先100年先日本をどう支えていくのか、議員として国を創る立場の方々はもっと理解を深めるべきではないでしょうか?将来を危惧してこの政策に異を唱える科学者たちに、きちんと説明できるだけの見識を議員たちは持つべきだと思います。ここ10年で利益がでる、でない、という見方では、こういう分野は理解できないと思います。このままでは世界をリードする「技術立国」日本はどんどん転落してしまう気がします。
民主党は今は自分たちの地位をしっかりと固めるため、四苦八苦しているのだろうと思いますが、大きな視野に基づく政策を行ってほしいと思います。
私も「日本」という「国」についてもっと勉強し、今後の政治の動向を見守っていきたいと思います。(これも子供が生まれたことで、自分が変わったことかもしれません。。子供が生まれたことの「意義」は私にとっては非常に大きなものです。)
こんにちは。
久し振りのブログです。
前回ブログにも書いたのですが、最近本を読む時間を増やしているせいか、いろいろと思考をめぐらすことが多いです。
故加藤周一氏の本を読んでいて、同時代の人たちが持つ共通意識について、考えさせられました。私は小さい娘がいますので、私が年老いて亡くなってからの未来についても否応なく考えざるを得ず、政治や環境問題等も他人事ではなく、自分の身近なこととして考えるようになりました。将来への不安を掻き立てられる問題は今たくさんあると思うのですが、その一つに少子化の問題があげられると思います。
これはあくまで私的意見ですが、自分の経験から踏まえても、女性の社会進出や、女性が自分の人生を楽しんだり、自分の自己実現に時間やお金を費やすことが普通となっている、この現代の共通意識=常識が、少子化に少なからずつながっているのではないか、と本を読んでいてふと思いました。
もちろん少子化といったって、子供はちまたにあふれていますし、保育所が足りないことが問題になっているくらいですから、今すぐ何か問題が起こるということはないと思います。そして、私自身、自分の自己実現は生きる最大の目的であるし、その中でたまたま子供ができ、生まれてきたのであり、そうでない選択肢(子どもを持たないという選択肢)も当然あり得たと思います。自分の心のままに生きる、自分の真理を生きる、ということは人生の中で最も大切なことだと思っています。
しかしながら、このいまや誰もが「そうだ」とうなずけるような考え方も、50年前の日本社会では違ったと思います。女性の社会的地位、女性の役割というものは今と全然違ったでしょう。早く結婚して子供を持つことが女性として当然求められていたと思うのです。
ここで私がいいたいのは、昔と比較して今を批判することではありません。この同時代を生きる人たちが当然だと思っている「意識」が、鳥瞰的に歴史という長い線で見れば、それが「人として当然だ」と言える考え方かどうかわからないこともあり得るわけで、しかしながらそのことに対して客観的な目、あるいは批判的な目を持つことが難しいということです。つまり、今を生きている自分たちにとって、今まかり通っている考え方を客観的にとらえることが難しいということです。それだけに、「少子化」の話も含め、知らず知らずのうちに、大きな意識の渦が何かを生み出したり、どこか思いもよらないところへ私たちを連れていくこともあるのかもしれません。「今」を大きな視野でとらえられるようになりたいものです。
こんにちは。
また日にちが空いてしまいました・・・毎日忙しい中更新されている方を見ると、本当に頭が下がります。

ところで、9月9日の舞台を見に来て下さった方、本当にありがとうございました。
「作品の作り方がすごくよかった。」「またこの作品見たい。」と何人もの方に言っていただき、自分の思いを作品にして伝えたかった私としては、とてもうれしかったです。フラメンコを知らない方にも楽しんでいただけるよう工夫したつもりです。しかし、自分の踊りに関しては反省点も多く、これからまた練習・勉強に励んで参ります。

最近考えていたことですが、この十数年という年月、フラメンコにばかり時間を費やし、振り返ってみれば、スペインのことには詳しくなったが、そのほか大きな視野で世界を見たとき、あまりにも無関心できたと感じています。もちろん、今までがむしゃらにやってきたことは後悔していません。何かひとつのことに打ち込んでいる人は素敵だと思います。
しかしながら、子供ができて、私はいったい子供に何を伝えられるか(前回は踊ることで伝えられることを書きましたが・・・)、私という人間は客観的にみてどういう立場にいて、それをどうとらえているか、ということを考えると、自分は日本人として、日本の歴史も政治も、日本人女性が歩んできた道も、深く考えたり、学んでこようとしなかったと思うし、日本が世界の中でどういう立場におかれているか、ということにも無関心だったと思います。
そこで、今思うのは、自分がたっているポイント(点)に続く「線」を、本を読んだり人から学ぶことで増やし、面としていく、自分の立っている位置を鳥瞰的にとらえることをしたいと考えます。
どうしてこういう考えに至ったのかというと、おそらく子供に対して、”ぶれない”母親になる、という気持ちがあるからだと思います。また、子供を育てていく立場になって、自分の考えが子供の環境に大きな影響を与えるということを考えると、自分本位な考えで子供を育てることへの危機感があります。子供が勉強していくことになる、日本の言葉(国語)、自分の土地のこと(地理)、先祖のこと(歴史)、また科学や環境や数学について、受け身で習うことだけしかできなかった自分と同じ道を歩ませたくない(これは日本の教育の在り方にも問題があると考えます。)。学校で習う表面(おもて)の部分には実は深い深い道のりがあって、そこを学ぶことこそが自分自身を深め、豊かにするのだ、ということを早い段階で気づいてほしいという気持ちがあるのだと思います。
だから、今子育てと同時に自分自身がやっていきたいことは2つ。1つは踊りを磨き続けること。もう1つは今述べたことを学んでいくことです。
こんにちは。
ここ数日まめに書いています。
昨日、考えていて思ったことがあったのでまた書いています。
それは、子供を保育園に預けることの是非と、自分が子育ての時間を削りながらフラメンコを続けることの意義についてです。
今まで、子供と接する時間を割いてまでフラメンコを練習したりフラメンコに従事することに、ある種の罪悪感を感じていました。フラメンコを教えたり、人前で踊ってお金をいただいたりしている以上、仕事とも言えるのですが、生活できるほどのお金をいただいているわけではない割に、あまりにも割く時間・精神的比重が大きい。結局自分のためにやっている、という結果に落ち着き、自分のために子どもとの時間を犠牲にしていると自己嫌悪に陥っていたのです。
しかし、昨日「将来娘が大きくなって、ピアノかバレエか新体操を習わせたいなー。でも、この『習わせたい』という感覚って、強要してるってことかなー」などと考え始めたことから、そのことに対する考え方に変化が訪れたのです。
娘が幼稚園や小学校に入るくらいの年齢になってから、何かスポーツや音楽・芸術に関わるものを習わせたい、と思う親は少なくないと思います。私もその一人で、娘に何かを習わせたいと思っています。
しかし、自分の経験上からもそうですが、親が最初に教室に連れていく以上、つまり子供から自発的に行くわけではない以上、その子供が、それを習うことに喜びや楽しさ、さらには意義を見出す、というのは子供によってかなり差がでてくると思います。
私は小さい頃、母に連れられてピアノとリトミックの教室に通っていました。とても楽しかったのですが、結局10年ほどして辞めました。(10年続ければ続いた方かもしれないですが・・・)
ピアノに関して言えば、練習することはそんなに苦ではありませんでしたが、「ピアノで自分自身を表現する楽しさ」を自分で発見することはできませんでした。「課題を間違わずにこなすこと。先生に言われたような強弱の付け方を練習する。」という風に、常に誰かの指示に従うこと以上のものを見出せなかったのです。
このように考えると、親が習わせたい、と思うものと子供が自分で楽しさを見出せるものが必ずしも一致するわけではない。しかし、学ぶきっかけもないと、出会うことすらない、という板挟みの状態になります。いろいろ体験させてみて、興味を持ったものをやらせてみる、というのも「うーん。体験だけで本当にわかるのかな?」と懐疑的に思ってしまいます。
以上考えは尽きませんが、結局私は、「子供が自分を表現する喜びを知ってもらいたい」と思っています。そして、このことについて、、私はフラメンコを続け、自分が自分の思いを表現することの大切さ、素晴らしさを身を持って体験している。だからきちんと説明することができます。聞いた話としてでなく、自分の体験として知っている。それを娘に伝えることができる。このことこそ、自分自身が自分自身のフラメンコのために時間を費やすことの、子育てに対する意義である、と気がついたのです。フラメンコに浸って踊っているときにこみあげてくる至福感や喜びは、口では説明できるものではありません。
「踊っているママは生き生きとしている。」そう娘に感じてもらえたら、と思います。でも、「フラメンコばかりで私にかまってくれないママは嫌い」という思いをさせてしまったら本末転倒。バランスのとり方なのでしょうね。
このように考えていくと、子供を育てるというのは、一緒に時間を過ごしたり、身の回りの世話をすることだけでなく、父の、そして母の「生き様・生き方」を通して人生の意味を伝える、ということも子育てになるのではないでしょうか。「保育園に入れることがいいのか、悪いのか」というフィルターだけでなく、「保育園に入れること」の良し悪し含めて、大きな枠で子育てをとらえ、どう育てていくか、と考えることが大切なのかもしれません。
こんばんは。
先日、日本で唯一のフラメンコ専門誌「パセオ」でインタビューを受け、私は「一時期、踊りで使う筋肉を強化するためにジムに通った」というようなお話をしました。
「ジムに通った。」それは確かに本当です。フラメンコはバレエなどと違って、力づよさも必要ですし、瞬発力を養うことによって、踊り方に幅が広がると思ったのと、持久力をつけるためです。この2つ、確かにテキメンに効果が出たと感じました。
しかし、今練習時間が減ってしまい、一番踊れていたころから確実にいろいろな部分の筋肉が落ちてきて、気がついたことがあります。それは、踊りで使う筋肉は踊ることによって鍛えられるということです。当たり前のことといえば当たり前のことですが、その当時は、筋トレで鍛えることでできる筋肉と、踊りの訓練でついてくる筋肉の違いを実感としてあまり感じていませんでした。筋肉は本当に沢山細かく体内にあり、それぞれ連動しています。また「体で覚える」という言葉のように脳から指令を出して動かす筋肉でなく、使うことで胃のように無意識下で動いている筋肉もあります。部分的に筋肉を鍛えても、結局は踊ることで感覚も含めて筋肉が覚えていくのではないでしょうか。
私は昔先生に習っているとき、踊っている途中にお尻が出っ尻りになっているのを長い間口すっぱく注意されていました。いつの日からか、全くお尻が出なくなり、その後は気にならなくなっていました。しかし、最近自分の踊る姿を鏡で見て「あっ!尻がでてる!」と気がついたんです。とてもショックでした。今まで長い間時間をかけて得たものが失われていくという事実を目の当たりにしたのです…子育てに専念するということはこういう辛いことも受け入れるということなのでしょう。
でも、なんで出っ尻りになるんだろうと考えて、一つ気がついたことがあります。それは、ブラソを自由に動かしたとき、その運動を支えるタイカンが弱っている、ブラソの練習で鍛えてきた腹筋と背筋(これは筋トレで鍛えれば備わるというものではない)が弱っているということです。ブラソを瞬時に上げたりして回転すると尻が出てるんですよね…
これを再び克服するのに、筋トレは効果がないような気がしています。ブラソの動きに耐えうるだけの背中とお腹の筋肉はブラソの練習によって体が必要な筋肉を作っていくと思います。
このように考えていくと、筋トレも何のために行っているのか、ということを自分できっちりわかっている必要があるのでしょうね。決してむやみにやっているわけではないのです。。
こんばんは。
今日は子育てに関連していることではないですが、ちょっと思ったことを・・・
最近、以前のようにたくさんの時間を練習に割けない分、またスペインに行って感覚を磨くことができない分、頭でっかちになりがちですが、今日la tanaというカンタオーラのCDを聴きながら思ったのが、やはり曲に心が感じていないと踊りは形だけのものになってしまうということ。”フラメンコを理解する”という言葉も使われますが、それともニュアンスが違うものです。というのも、このlatanaのCDには2つのタンゴが入っているのですが、capullo風タンゴには感じていないのに、彼女のノリで歌っているタンゴにはすごく心が心地よさを感じているのです。同じ歌い手の同じCDの中の同じタンゴで、自分の心が全く違う反応をすることに自分自身驚きでした。そして、この心で感じていないタンゴは踊っていてもタンゴになっていないという感覚があり、心で感じているタンゴは振付など追わなくてもタンゴなのです。客観的に見られてないから周りがタンゴと思うかは別として・・・
花に例えれば、心というのは種や核(遺伝子の)であり、種が育つから生花になるように、心が曲をとらえて感じていなければ、造花のように、形が美しくても本物にはなれないのではないでしょうか。
しかしながら、心では感じていても、”フラメンコを表現する”ための身体的技術が備わっていないと、踊りとしてはフラメンコにはならない・・・結局は練習、ということでしょうか。。フラメンコは一筋縄ではいきませんね・・・
こんばんは。
前回のブログも久しぶりでしたが、今回もまた日にちが空いてしまいました・・・。
5月に、危機感からではあるものの、フラメンコへ気持ちがどうしても向かなかった時期、偶然にもパセオさんから取材を受けることになりました。そのときは、本当にフラメンコを続けるか真剣に悩んでいて、果たして取材をお受けしてよいものかと迷いましたが、「このように子育てには思いもよらないスランプ(精神的スランプ??)がやってくる!」というお話を素直にさせていただこう、と結局お受けすることにしました。
最近、ようやく「子育てへの危機感」から脱出し、フラメンコと子育てのバランス・距離感を感じられるようになってきました。そして、フラメンコへの自分の気持ちも整理つけつつあり、娘も保育園にすっかり慣れて、ようやく生活が落ち着いてきました。久しぶりに心をアレグリアスの曲に完全にゆだねて踊ったとき、自然と涙(嬉し涙)が出てきて、「本当に感じて踊るってなんて幸せなんだろう」と強く思いました。また、涙が出る場所(感覚としての場所)と踊るときにフラメンコへ自分をゆだねて浸っているときの場所が似ていることに気がつきました。
娘ですが、保育園にすっかり馴染んで、朝ママと別れるやいなや、女の子3人で(1歳にしてすでにもう「女の子」です。)何やら楽しそうにしています。0歳児クラス(娘は4月2日生まれなので、すでに1歳だけど0歳児クラス)の雰囲気も最初の1,2ヶ月とは全く違い、みんなそこが自分の心地よい居場所となっているようで、いい雰囲気に包まれています。先生方の並々ならぬ努力のお陰だと思います。小さいころから母親を離れて保育園に入ることの是非についていろいろ考えてきたけれど、またいろいろ考え方が広がっています。また書きます。
では!
こんばんは!本当に久しぶりにブログを書きます。
たまにいろいろ調べ事などしていて他の方(ジャンルを問わず)のブログを読む機会がありますが、毎日まめに更新されている方が多く本当に感心してしまいます。
4月15日までのやる気に満ちたブログとは打って変わって・・・この1ケ月くらいですが、娘が自分の意思表示をするようになってきて、自分の子育てに対する考え方というのをつきつけられました。
今までは、どちらかというと身の回りのお世話中心の生活で、スタジオにつれて行って床にスポンジのタイルをひいて寝かせたり遊ばせたりしていればよかったのですが、立って歩くようになってからそうはいかなくなってきました。
歩くようになると、子供は世界ががらっと変わって、自分からどんどんいろんなことを学び吸収していきます。そして、その学びや吸収の過程に「母親の存在」というのがとても大切だと今は感じています。なぜかというと、何をするにしても「誰かが見守っている」という絶対的安心感が必要であるし、何かを学んでいく過程でコミュニケーションをとりながら学ぶということが子供にとって重要だと考えるからです。娘はなんでも手に持って自分で見たりなめたりして確認した後、私にそれを持ってきます。そして手に渡してくれたり、ときには食べさせようとしたりします。私はそれに対して「これは○○だね。」とか「これはこういう理由で持ってきちゃダメだよ。」と語りかけます。娘は私が言っていることを言葉で理解していないと思いますが、「お母さんが受け答えしてくれている」と感じることが大切だと思うのです。それがほかの誰でもない「お母さん」である、ということが大切なんではないだろうか?と思うのです。理由は説明できないのですが・・・直感です。。
しかし、だからといって、四六時中一緒にいるべきだ、とも思ってはいないのですが・・・
今まで身も心も(?)フラメンコに捧げてきたため、常にフラメンコのことが頭にあるのは当たり前のことだったのですが、そのような状態で子育てをしていること、娘に接していることに、あるとき突然強い危機感を感じたのです。上手に割り切って子育てと踊りを両立しているつもりだったのですが、フラメンコを完全に忘れる、ということは踊り手として活動していると出来ないのです。特に私は猪突猛進型の人間で、一つのことに夢中になると他と並行してできない。不器用なのです。
限られた自由時間を、娘の成長を見守るかフラメンコのどちらに費やすか選択しようとすると、今心から娘の成長を見守ることを選択しようと思う。こんなことは今まで考えられなかったことです。24時間練習する時間、勉強する時間の確保のことばかり考えていたのに・・・でもこのような大きな心境の変化がまた踊りに影響したりするのかなと思ったりしています。それがまた楽しみです。
こんにちは。2週間ぶりのブログとなりました。
4月1日から慣らし保育が始まり、少しずつ保育園になじんでもらえるように毎日通っています。娘は4月2日生まれのため、0歳児クラスであるにもかかわらず、3日の入園式にはすでに1歳になっていました(笑)。
保育園に通えるようになったことはよかったのですが、保育園でうつってしまうのか、まだ2週間しか通っていないのに、すでに2回も風邪をひいています。やはり小さい体で慣れない集団生活を慣れない場所でするため、疲れとストレスがたまるのかもしれないですね。朝預けるときは泣くものの、午後迎えにいくとニコニコと元気にしているので、「結構楽しくやっているのね」と寂しさも感じていましたが、体には応えているのでしょう。慣れてしまえば、友達と遊べる場でもあるので、楽しいのでしょうけれど、うーーん、ほんとに預けてよかったのか、と今でも自問自答の毎日です。
話は変わりますが、先日久しぶりにジムに行きました。持久力と脚力の衰えは、スタジオでの練習ではまかなえきれず、きちんとした筋力体力トレーニングの必要ありと判断したためです。(スポーツジムでの筋力トレーニングは、踊りに活かす場合、どこの筋肉(体力)をどういう理由で鍛えるのか、どういう踊り方を目指すから何が必要なのか、というはっきりした目標があって行く方が効果的だと思います。フラメンコ自体を追及するのに、本来そういった筋力トレーニング等は必要ないと思いますので・・・)
右足のタコンをしっかりおろしきれないために、高速サパテアードになるといつも力が入る、と前に書いたと思うのですが、今回気がついたのが、左右の「ハムストリング」のつき方の違いです。右太ももの裏にはあまり筋肉がついていなかった!!ショック!!これも打てない原因ではないだろうか?と思うので、早速これから右ハムストリング強化に努めます。その結果、何か変わりましたらまたブログに書きますね!

こんにちは。
4月から娘が保育園に入ることもあり、この1週間はフラメンコや踊りのことを考えるのをやめ、これから先のことや娘と接する時間を中心に過ごしていました。(1週間が限界であった・・・)
そこで気がついたのですが、今までかなり精神的な面でフラメンコに追い詰められていたというか、常に頭の中から踊りのことが離れない生活をしてきたなと感じます。臨月で踊れなくなってから、ほんとにフラメンコの夢を見ない日は一日もない、というくらい、そして歩いてても家事をしてても常に体の重心やバランス、踊りで使う筋肉のこととか、マニアックに考えて過ごしていたなと・・・
十分にスタジオに通ったり、踊りの練習時間がとれるころはそこまで考えていることはなかったと思うのですが、なかなか自分の時間が取れないからこそ精神的に追い詰められてしまったのでしょうか・・・
でも、そういう生活から離れて自分の生活を振りかえると、常に何かに気を取られている生活というのは子育てしている母の生活にはあまり向かない気がします(あくまで一意見です)。娘が成長し、意志が芽生えて、歩くようになって周りの世界をどんどん吸収している日々の中で、その瞬間瞬間を見守っている存在がいかに娘にとって大切か。それは具体的に目に見えることではなくて、目に見えない、そして一日二日では感じられない日々の積み重ね的な事柄というのでしょうか、そういう部分でいかに大切かということを最近特に感じつつあります。
例えば、娘は一人遊びしていても、よく私の顔をうかがったり、確認して安心した顔をします。「ママ」や「パパ」がいれば、私は絶対安全である、安心して遊んでいられる、ということをわかっている。そして、自分が遊んでいることを誰かに見てもらっていることは、子供にとってコミュニケーションしているようなものなのかなと思います。
個人的な意見ではありますが、感覚的にやはり2,3歳くらいまでは子供は母親と一緒にいる方がいいのかなと感じます(根拠があまりないので説得力に欠けますが・・・)。でも、たとえ一緒にいても子供に対してきちんと接しなかったり、他のことを考えながら子供の相手をするのであれば、一時的に預かってもらって、子供といる時間は精一杯子供に接するのがいいのかなと思います。精神的な余裕があることが大切ということでしょうか・・・。といいながら、子供を放置してこのブログも書いているんですけどね・・・(失笑)