私達は互いの話をしない。
相手に興味がないわけでもなく、やましいことがあるわけでもなく。
ただ何となくそうやって過ごしている。
彼との生活はけして明るく楽しいものではない。
部屋には最低限のものだけが存在し、散らかることもなく、生活感のかけらもない。
彼も私も派手な暮らしは望まなかった。
殺風景…人はこの部屋を見たらそういう表現するかもしれない。
だけど私達にはこの空間がひどく落ち着き、満足していた。
「ミオ」
珍しく彼は私に用があるらしい。
自分の名前を呼ばれたのは何だか久しぶりな気がした。
「何」
用件を聞こうと彼に返事をする。
彼は珍しくベランダのカーテンを開け、外をぼんやり眺めていた。
いつもは閉めきって暗い部屋がそういえば今日は違った。
穏やかで温かい春らしい柔らかな日差しがある。
彼は普段から何を考えているかわからず、
焦点が定まっていない目をし、心は何処かに置いてきたようであった。
だが、今日は違う。
彼ははっきりと外の景色を見つめ、何かを思っているようだった。
「唯?」
返答がないので彼の名を呼ぶ。彼は自分の世界に籠るところがある。
本人も自覚症状がなく、人の話もうわのそらで何処かにいってしまう。
いつも何処にいっているんだろう?
その場所に本当の彼がいる気がして気になっているが尋ねることはしなかった。
私を拒絶するのではないか?と思い、聞くことができず、
また彼もそうして欲しいと思っているように感じとれたからだ。
「桜、見たい」
「わかった」
彼はどうやら桜に興味を示したらしい。私達は無言で出かける仕度をした。
といっても、たいしたことはなく、必要なものだけを彼はポケット、
私はほとんど物の入らぬポシェトに入れて。
きっと彼のことだ。
世間で噂の話題の人気スポットというような所ではなく、
小さな何処にでもある何の変哲もない公園を選ぶだろう。
「あ、待って」
私はいつもの淡い色のカーディガンを忘れたことに気づく。
これは防寒対策としてではなく、本当の自分を隠すために必要なのである。
昔、私には自傷癖があった。
なぜそのような行為を繰り返したのか、今となってはどうでもいい。
しかし、傷は忘れることを許さず、
自分への戒めのために存在するように消えることはなかった。
彼もこの傷のことを知っている。だけど聞くことは一度もなかった。
「まだ、ちょっと寒いね」
早かったかな?と彼は少し笑った。
確かに外は部屋と温度差があり、春はこんなに寒いものだったのかと考えさせられたが、
それでも少し冷たい空気が綺麗で新鮮な感じがした。
体内に取り込まれた空気は澱んだ心さえもほんの少し浄化していくような心地よさもあり、
ガチガチに固まったものがちょっとだけ溶けていくようなそんな感じだった。
「悪くはないよ」
これもこれでいい。
単純にそう思い、そっと彼の手に自分の手を重ねると
彼はその手を優しく自分の方へ引き寄せ、握った。
温度がない手。冷たくも温かくもない彼の手はときどき私を不安にさせる。
彼は存在しないのではないか?
彼はいつか何も言わず、消えてしまうのではないか?
そう思い、気がつけば強く握り返してしまい、そのたび彼は不思議そうな顔をした。
「此処?」
私に合わせていてくれた彼の足がピタッと止まる。
彼は小さく頷く。私は辺りを見回した。
私達以外に他に人はいなかった。
ぽつんと住宅街の中にある、大きな幹の桜だった。
一人ぼっちのその桜は根もしっかりしていて相当昔から其処にいたようだ。
私が感傷にひたっていると彼は懐かしそうに淋しそうに話し始める。
「昔、太くて大きな桜の木の下で寝ている子を見たんだ」
「うん」
「桜の木の精だと思った」
おかしいねって彼は笑った。
彼女はとても穏やかな顔をし、幸せそうに眠っていて、
その上に桜の花びらがひらひら舞っていた…
紙吹雪のように…祝福するようにと。
それほど桜が似合う子だった…そう言うとまだ何か言いたげな顔つきで幹に手を当てた。
そういえば彼が昔、郊外の病院に勤めていたという話をしたことがある。
病室の窓から桜が見えるのだと…悲しいくらい綺麗だったと…
いつも桜を眺めながら、自分を桜に重ね合わせていた患者いて、泣き笑いの激しい、
喜怒哀楽で本当に忙しくて手のかかる人物でとても苦労したんだって…
「ミオ、帰ろうか」
「もういいの?」
「うん」
彼は満足したようで少し淋しそうに笑って、桜に背を向けた。
また、手を握り、同じ道を引き返した。相変わらず温度のない手だった。
私は行きよりさらに強く彼の手を握る。何処かに行ってしまわぬようにと、強く。
「その子のこと、好きだった?」
「どうかなぁ…」
彼ははぐらかす。でも私にはわかっていた。
彼は彼女を好きだった、少なくとも大切な存在であったと。
女の勘というやつだろうか?
きっと彼の心の中に彼女が棲んでいるのだと確信した。
桜の木の精霊は私の知らない彼を知っているに違いない。
目に見えない誰か、何かに嫉妬する。
「ミオ」
「うん」
「来年も、」
返事の代わりに彼の方へ体を傾ける。二人、繋がった影ができた。
くっついた影、境界線のない影が…
完全に一つにはならない影。
少しだけ溶け合って依存しあう私達のように…
桜の木の下にはきっと眠っている…
彼の気持ち、大切なもの…すべて一緒に…
いつか彼は置いてきたそれらを取り戻しに行くのかもしれない。
そのとき私は何処でどんな顔をしているんだろう…
見上げた空は黙っていた。答えを知っているのに知らん顔。
聞こえないくらい小さなため息をつき、俯く私に一枚の花びらが頬についた。
その花びらは白く儚くてとても綺麗だった…
END…
