【俺たちの東屋…7 ファンという犬】
東屋でイムジャお手製の疲労回復に効くという、ホッケ茶を飲みながら、ふたりで朝のひと時を楽しんでいた時のことだった。どこからか、犬が一匹迷い込んできた。
犬一匹でさえ、イムジャに近づくことが許せぬ俺は、その犬を抱き寄せ、何かついてはおらぬかと
調べてみた。
「可愛い、わんちゃんね、よしよし」
イムジャがその犬に手を伸ばし、撫で始めた。
「わんちゃん?」
「わんわんと鳴くから、わんちゃんと言うのよ」
「犬の名前ではないのですね?」
「ヨン、わんちゃん抱かせて」
ヨンに手渡されたその犬は、イムジャにくんくんと鼻を鳴らしてきた。
「この犬、イムジャに甘えています、生意気な」
「あら、悋気?犬なのよ」
ヨンがその犬をイムジャの腕から取り上げようとした時だった。
「お前、ファンか?」
くんくん、その犬は鳴いた。
「ヨン、ファンって、昔飼っていた犬なの?」
「飼っていたのは慶昌君様(キョンチャングン)です」
「慶昌君様が犬を飼っていたの?」
「まだ、慶昌君様は十二歳でした故」
「そうだったの」
「ファンと言う犬でした、とても似ているのです」
「可愛い名前ね、ファン、こっちにおいで」
イムジャが、その犬に向かって呼ぶと、その犬はまた嬉しそうにくんくん鳴いた。
そして、ヨンは思い出したかのように話してくれた。
「イムジャ、俺は、ある日の晩、王宮の庭にこっそり出てきた慶昌君様を見かけました」
「ひとりで?」
「はい、ひとりでおられるのかと尋ねましたら、びくびくしておられました。
お供をするとお伝えしたら、ファンに会いたいと仰られて、どなたかとお尋ねしたら、慶昌君様が飼っている犬だと」
「そうだったの」
「幼い頃から共に育ってきたそうでしたが、宮殿に来る時、離れ離れになってしまったそうです」
「お寂しかったでしょうね?」
「はい、そう思いました。迂達赤の隊員に連れて
くるよう命じようとしたら、王たる者は下らぬものに情けを掛けてはならぬ、でも、ファンに会いたいと仰られました。
俺は、こっそり行って、内緒でお会いになることを話しました」
「分かるわ、ヨンらしい。慶昌君様は王様なんだけど、ヨンはお兄さんみたいな存在だったはずよね」
ヨンがにっこり微笑んでくれた。
「俺は、己の馬に慶昌君様を乗せ、迂達赤と共にユン氏の屋敷に向かいました。
俺が慶昌君様を抱えて下ろそうとした時、家の中から何かが矢のごとく迫ってきました。慶昌君様は駆け出して、小さな胸に抱き留めたのは大きな黄色い毛並みの犬でした」
「ねぇ、ヨン。このわんちゃんも大きな黄色い毛並みね」
「はい。俺はその時初めて、幼い王様の笑い声を聞きました」
「そ~う。さぞお喜びになったでしょうね」
「はい。迂達赤が黄色い犬を盗んで兵舎に連れて来ました。それからは弓矢の稽古という名目で、慶昌君様は毎日迂達赤の兵舎へと訪れて頂きました。その側にはいつもファンがおりました」
「ヨンらしいわ。そういう細やかな優しさがヨンにはあるのよね。目に浮かぶわ。」
ヨンが嬉しそうにイムジャに笑顔を見せている。
「江華島へふたりで行った時あったでしょ。ヨンが慶昌君様を抱き締めた時、私思ったのよ」
「何を?」
「ヨンはこんな優しい顔を見せる人なんだって。
それまでは、いつも眉間に皺を寄せていたり、
怖い顔をしているのが当然のように感じたけど、あの笑顔を見た時ね、実はヨンに完全に心を奪われてしまっていたのよ」
「俺にですか?」
「そうよ、まぁ、その前にもそういうこともあったけど…」
「俺はイムジャより、もっと早く魂がイムジャを求めていたと思います」
「私だって、そうよ。だから、あの笑顔を見た時に好きになってはいけないと思いながら、ヨンをどんどん好きになって止められなくなっていったのよ」
「思う気持ちは同じだったのですね」
破顔一笑のヨンの顔を覗き込んだ。
「俺はイムジャと江華島へ行って、慶昌君様とお会い出来て良かったと思っています」
「そうね、この時代では不治の病。あのままなら、いずれは、やっぱりそうなってしまったわね。
慶昌君様は、ヨンとお別れが出来て良かったと思っているはずよ」
「俺はイムジャが居ない四年の間、何度か夢を見たことがあります。慶昌君様の前でイムジャが歌っていました。とても楽しそうで、夢から目覚めても俺は暫く笑っていました」
「あら、私があまりにも上手に歌うからかしら?」
「そうですね」
ヨンが小さく笑った。
「ヨン、このわんちゃん、お屋敷で飼っちゃだめ?お願い、んぅ?」
「飼いましょう」
「ねぇ、ヨン、そうよそうよ」
「何がですか?」
「慶昌君様が亡くなった時、黄色い小菊が満開だったわ。今もそうよ。命日が近いはず」
「あっ、確かにそうです」
「ヨン、この犬は慶昌君様の生まれ変わりかも知れないわね」
「慶昌君様が犬ですか?」
その時、その犬は、イムジャの胸の中で気持ち良さそうに眠ろうとしていた。
「ファン、それだけは許せぬ。例え、慶昌君様の生まれ変わりであろうとそれだけは許せぬ」
「ヨン、顔が怖いわ」
「イムジャ、イムジャの胸の中で眠るとは許せぬのです。俺は小さい男です」
「うそよ、大護軍よ」
「名ばかりです。さぁ、ファン、こちらへ」
ヨンが手を差し伸べてきた。
「ヨン、心が狭いわ」
「狭くてもいいのです」
「ヨン!」
「イムジャ!」
その犬は嬉しそうにくんくん鳴き始めた。
「ヨン、嬉しそうね、このわんちゃん。ファン!」
「仲良く暮らしましょう、でもイムジャの胸の中は俺だけの場所です」
「全く、困ったわね」
ヨンは、返事の代わりに、ファンを抱くイムジャを抱き締めた。
その笑顔は、あの日慶昌君様に見せた顔と一緒だった。
東屋は思い出を美しくしてくれる。
嫌な思い出も洗われていくようだ。
☆-☆-☆-☆-☆
「東屋」のコメントで、「次は慶昌君様出て来ないかな?」と頂戴したので、ファンを登場させてみました。
【小説『シンイ』2巻第10章】にファンが登場します。
移動中の新幹線の中で一気に書いてしまいました、あまり見直ししていません。
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ここまで読んで頂きまして、ありがとうございました。