遅れ褪せながら、山陰方面の旅行の続きです。
2日目は足立美術館からでした。
館内は撮影禁止なので、枯山水の庭がメインになります。
観光客が外で見学してるので、額絵の写真は撮れませんでした。
凄い枚数を撮りましたが、同じような写真ばかりではつまらないので・・・
時間が足りず、絵画や美術品は忙しく見たので、記憶に残ったのは、
伊藤深水さんの小暮美千代さんを描いた絵です。
バスで出雲大社に向かいます。
話し上手な地元のガイドさん(男性)の説明を聞き、記念写真を撮ってから、
ツアー客全員で参拝ですが「2礼4拍手1礼」でした。
その後、自由散策だったので、観光をしながら御朱印もいただいてきました。
手水舎
拝殿で頂いた御朱印です。
拝殿
神楽殿で頂頂いた御朱印です。
2か所で御朱印を頂けます。
出雲大社の由来
縁結びの神・福の神として名高い「出雲大社(正式な読みはいづもおおやしろ)」は、日本最古の歴史書といわれる『古事記』にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていました。
主祭神はだいこく様として馴染みの深い「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」で、『古事記』に記される国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された壮大な宮殿(※)が出雲大社の始まりといわれています。
出雲大社の歴史
現在の本殿(国宝)は延享元年(1744)造営されたもので高さは約24mですが、出雲大社の社伝によれば、太古の時代、出雲大社本殿の高さは現在の4倍、約96mあったということです。
本殿の後ろにある八雲山が約100mですから、山の頂上付近に千木(本殿屋根の先端にある交差した二本の木)が見えていたと想像すると、現代でも圧倒される高さです。
また平安時代の頃には約48mあったと伝えられ、平安時代中期の貴族の子弟の教科書『口遊(くちずさみ)』には、雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)という言葉が記されており、これは当時の建物の高さベスト3を表現していると言われています。
「雲太」とは出雲大社本殿、「和二」は東大寺大仏殿、「京三」は京都御所の大極殿を示し、当時本殿が日本一の高さを誇っていた事が分かります。
この説は明治時代から様々な研究がなされ、当時の技術ではその高さの木材建築は不可能ではないかとも言われてきました。しかし2000年に本殿の南側で鎌倉初期の造営と推定される三本一組の巨大な柱根が発掘され、巨大な神殿の存在を裏付ける発見となりました。
(ホームページからお借りいたしました。出雲大社に電話で許可を得ました)
忙しくバスに乗り、次は世界遺産の「石見銀山」に向かいます。
石見銀山までは片道2,3キロ(徒歩45分)は足が悪く、歩けなかったので、
添乗員の許可を得て、大森町を観光して歩きました。
1人でぶらぶらもいいですが、話し相手がいたらもっと楽しかったかも・・・
一緒に行った同級生は、趣味が登山やトレッキングなので、1人で銀山に行き、
30分かからないで戻ってきました。
大森町の街並みです。
観世音寺で頂いた御朱印です。
羅漢寺で頂いた御朱印です。
五百羅漢さんの一部です。 祖父に似た羅漢さんがいました。
バスでその日の宿に着き、夕食はフグ懐石だったような・・・?
昨日の事も忘れるので、2年前の事は定かではありません(-_-;)
長々と書きましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。