2025年7月18日、C106(コミックマーケット106)の公式案内が発表された。

その中には、次のような言葉が掲げられている。


「コミックマーケットに“お客様”はいません」

「参加者全員はすべて対等です」

「マナーやモラルに従って自らを律し…行動してください」


いずれも毎度おなじみの“コミケ哲学”であり、内輪の価値観としては成立しているのだろう。だが、私はあえてこの姿勢に「異議あり」と言いたい。なぜならこの思想は、時代の変化と多様な立場の参加者をまったく見ていないからだ。



■「お客様はいません」は責任放棄の免罪符ではない


運営側が「お客様はいない」と断じるのは、あくまで“対等性”を理想とした建前にすぎない。

だが、実際にはどうか?

企業ブースやサークル参加者は優遇された導線や設備がある

一般参加者は長時間の行列、最低限の誘導、トラブル時は“自己責任”

海外からのインバウンド客や高齢者・障害者には、ほとんど対応がない


それでも「みんな参加者だから対等」なのか?

そんなのは運営が責任から逃れるためのスローガンにしか見えない。



■ルール最小限? 本当に?


案内文には「禁止事項など一律のルールは最小限にしたい」とある。

だが現実には:

コスプレの撮影における“非公式マナー”の強要

差別的・政治的表現に対する“自粛圧力”

暗黙の了解や内輪ノリを守らないとSNSで晒される空気


本当に「最小限のルール」なのか?

むしろ**明文化されていない“マナーの監視社会”**になっているだけではないか。



■「カタログを熟読しろ」の時代錯誤


「参加者は事前にカタログを熟読し、ルールやモラルを理解せよ」と書かれているが、

これは果たして2025年という時代に通用する論理なのだろうか?


今やあらゆるイベントは、ウェブと多言語で情報提供を行い、

初参加者でもスムーズに理解できる設計を当たり前にしている。


「カタログを買って読めばわかるだろう」という態度は、

新規参加者・外国人・障害者を排除する内輪主義の象徴ではないか。



■表現の自由を語るなら「誰にでも開かれた場」であるべき


コミケは長年、「表現の自由」「誰もが参加できる開かれた場」を掲げてきたはずだ。

だが、今のコミケはどうだろうか?

昔からの常連しか理解できない内輪ルール

知らなかった参加者を“叩く文化”

安全管理やサービス提供の不備を「参加者の協力が足りない」と片付ける構造


これでは、“自由”ではなく“放任”である。

“参加”ではなく“自己責任の押しつけ”だ。



 結論:開かれたオタクイベントを本気で目指すなら


私は決して、コミケを否定したいわけではない。

むしろ、世界に誇るべき日本のオタク文化を支えてきたこのイベントが、

もっと進化し、開かれ、真に多様な参加者を受け入れる空間になってほしいのだ。


だからこそ、「お客様はいません」などと一刀両断するような運営思想には、

私は異議を唱える。


“参加者=仲間”という幻想の裏に、誰かが置き去りにされている。