かつて、コスプレは“自由な表現”の象徴だった。

誰もが好きなキャラになりきり、世界を飛び越え、現実を一瞬でも超越する――そんな魔法のような文化だった。


ところが、いまの日本のコスプレ界には、そうした「自由」の本質が徐々に失われつつある。

私は最近、強く感じる。

日本のコスプレ文化は、もはや「封建的な村社会」と化しているのではないか?


今日はこの問題について、できるだけ深く書き残しておきたい。

■ 表現の自由が“空気”に潰される


村社会とは、空気によって支配される社会のことだ。

誰かが先に怒れば、それが「正義」になる 批判する人より、“空気を読まずに目立った人”が叩かれる

明確なルールがあるわけではないが、「この界隈ではそうするのが常識だよね?」という無言の圧力が支配する


コスプレイヤーたちは口々に「表現の自由が大事」と言う。

でも、実際に誰かが少し違う表現をすると、

「なんか浮いてるよね」

「あの人、なんか勘違いしてる」

「あの格好で来るのは非常識」


という“声にならない声”が、静かにその人を追い詰める。


■ ルールではなく“空気”で裁く構造


たとえば、あるキャラの表現でオリジナル要素を入れた人がいたとする。

アニメや原作の設定に忠実でなくても、自分の創意を込めた結果だった。

でも、その人は「なんかズレてる」「原作愛がない」と言われてしまう。


問題は、その「批判」が匿名のSNSやイベント会場のヒソヒソ話というかたちで行われることだ。

本人に向かって言わず、でも周囲には“あの人ちょっとね…”と空気を広げる。


つまり、透明なムラビトたちが集団で私刑を下す。


これこそが、日本のコスプレ文化を村社会たらしめている最大の病だと思う。


■ 「有名レイヤー」=身分制度


フォロワー数が多い、有名イベントに呼ばれる、企業案件に出る……

そうした「有名レイヤー」たちは、ある意味で“領主”になってしまった。

その人がイベントでいるだけで空気が変わる

その人が「このキャラは〇〇ってイメージ」と発言すれば、それが無言のガイドラインになる

その人に嫌われた人は、業界から姿を消すリスクすらある


もちろん全員がそうではない。誠実に活動している方も多い。

だが一部では、フォロワー数や“RT力”が「身分」として機能してしまっている現実があるのも否定できない。


これは封建社会の“家格制度”とそっくりだ。


■ 批判を許さず、反論も許さず、沈黙だけが美徳


何かに違和感を覚え、それを正直に言葉にしたとしても、

「文句ばっかり言ってる人」

「めんどくさい人」

「陰口ばかりの厄介オタク」


というレッテルが貼られる。反論のチャンスすら与えられない。


こうして皆、「本音」を語るのをやめていく。

フォロワーに嫌われない投稿

無難な衣装

目立たないけど空気を乱さない写真


その結果、個性よりも“没個性の安全”が賞賛される空気が広がっていく。


■ 私は村を出てもいいと思っている


私は、正直に言えば、この閉鎖性にうんざりしている。


もちろん仲間とのつながりは大切だし、礼儀や思いやりも必要だ。

だがそれは、個性や自由を圧殺するための道具ではない。


「好きなものを好きに表現する」

「誰かに叩かれることを恐れず、自分の美意識を貫く」

その精神を、私は捨てたくない。


村の掟に従わなければ仲間外れにされるなら、私は喜んで村を出る。


それでも、私は表現をやめない。


■ 村社会から抜け出すために


・批判されても、自分の表現を守る勇気

・空気に飲まれず、自分の言葉を発する誠実さ

・“派閥”や“数字”に縛られず、等身大の自分を貫く姿勢


これがなければ、日本のコスプレ文化はいつまでも閉じたまま。

“新しい風”が入らなければ、やがては“内向きな縮小”へと向かってしまう。


■ 最後に


コスプレは、誰かの“好き”がつくる文化だ。

だからこそ、それを縛るのはいつだって“無言の同調圧力”だ。


私はそれに抗いたい。

それを言葉にし、記録に残し、誰かの「モヤモヤ」に寄り添いたい。


村の中で呼吸ができない人たちへ。

私はここに、旗を掲げて立っています。


あなたの表現が、あなたのままで自由であることを、私は望んでいます。