社会問題を身近に…
という動き方を学生期にしてきたけれども
いま思うこと。


いかにリアルに
いかにありのままを
いかにダイレクトな心象風景の再現を
って視点だったけれども、


それが100%実現したところで
響かないな。と思うのでした。
そこで投影したいのはあくまで「自分が」みた風景であり、
「自分が」感じた世界。


それは押しつけだ。
感じ方は人それぞれというのはもちろんだけれど、
賛同者だけ集めるのは、機会提供ではあるけれども
まだまだ潜在的にもともと関心ある層への喚起でしかない。

確率のおはなし。


それはそれで。素晴らしい。
すごすぎること。


たぶん、
人って誰のために何をやっているのかが明確になっていないと
動けないし、何も感じない。


そこを補強しないと、
たぶんやりたい方向には自分自身も動けないんだろうなぁ。
補うのは想像力でしかないけれど、その「想像」は本来受動的なもので
補えるものではないのだと思う。


さらに要求するのは伝播。


特定の個人に寄与する伝搬のあり方はあるけれど、
どうしてもその人の物語の一つとして帰着する。
その人への感情移入があってこそ、その事象へも波及する感情移入。


優れた講演者や、扇動者にはその力があるけれど
なんだか一代限り感が強い。
あの人は~ってサブジェクトは、自分事として内に諸問題を孕むことができるのかはなはだ疑問。


語り手と、聞き手と、問題の三者間関係を見ると、
その語り手にはある種の没我性が求められる時が必要だったり、
語り手と聞き手の物語の中に連続性が必要だったりする。

SFは100%虚構ではなくて、
今の自分の世界との連続性が感じられるから
面白さがあるみたいに。

「すごい」の距離ってそんなところに原因あるのかもね。
さてさて

おわり。