ひもんやぢい散歩24~多摩川の流れは絶えずして
「矢口の渡し跡」は多摩川大橋から少し上流側にあります。多摩川の流れは変わり続けているので、現在渡し跡の碑のある場所と一致するかはわかりません。新田義興が命を落としたころの多摩川もっとは蛇行していて、矢口の渡しは多摩川大橋よりも東側、「新田神社」の近くだったといわれています。ということで、新田神社と矢口の渡し跡を訪ねた時のお話です。 新田神社の最寄り駅は、東急多摩川線の「武蔵新田駅」です。多摩川線は元は目黒駅と蒲田駅を結ぶ目蒲線で、現在は多摩川駅で分断されて、目黒駅方面は東横線に付け替えられ目黒線となり、多摩川駅から蒲田駅の部分が多摩川線として存続しています。目黒駅の現在大きな駅ビルが建っているところに、東急目蒲線の始発駅、東急目黒駅の地上駅舎がありました。そんなことを覚えている人はどんどん減っていきますが、武蔵新田駅は目蒲線当時と同じ駅舎で、昔ながらの上り下りホームのそれぞれの先端に改札口があり、駅のすぐ横に踏切のある地上駅です。 武蔵新田駅で下り多摩川線を降り、改札を出て踏切を渡ると駅前商店街で、商店街を進むと五叉路があります。五叉路あるところに旧道ありで、ここも「鎌倉街道」の旧道が通っています。2つある左折路の細い方の道が鎌倉街道でこちらを進むと通り沿いの右手に新田神社があります。 正平13年・延文3年(1358年)新田の元家臣竹沢右京亮は、足利尊氏の死に乗じて鎌倉を攻めて奪還することを新田義興に進言、そそのかされた義興が鎌倉に向かう途上、右京亮は矢口の渡しで義興を背後から騙し討ちして、義興は命を落としました。その後、矢口付近には夜ごと光り物が現れて往来の人々を悩ますようになり、近隣の住民が義興の霊を鎮めるために墓の前に新田明神社を創建した、といのが新田神社の来歴です。 墓の前に作られた神社ということで境内はあまり広くはないのですが、その来歴通り義興公を新田大明神として祀る本殿の裏にご遺体を埋めたとされる塚があります。高さ15メートルほどの円墳で、柵に囲まれたこの場所はご神域とされ立ち入ることができません。入ると祟りがあるといわれています。塚の後ろ側は竹藪で、この竹は決してご神域を超えて生えることのない「旗竹」と言われる竹です。義興公の矢口の渡しでの最期を、浄瑠璃作品「神霊矢口渡」にしてヒットさせた平賀源内が、この竹を使った破魔矢を考案し、こちらも魔除けとして大流行し、神社の破魔矢の風習が全国に広まったとされ、新田神社は破魔矢の発祥の地です。 面白いものとしては平成12年に目蒲線が分割され多摩川線になった際に、街おこしのために各駅に彫刻や絵画を飾る「多摩川アートラインプロジェクト」が立ち上がり、参加アーティストの一人の稲葉克己さんが偶然新田神社を参拝し、この境内を気に入られてご自身の作品、「石の卓球台」を奉納されています。社務所でラケットとピンポン玉を無料で貸し出しているので、この台で実際に卓球を楽しむこともできます。 千代が池、刺抜稲荷大明神と、目黒にもご縁の深い義興公に手を合わせます。 新田神社のすぐそばには「矢口氷川神社」があります。社殿そのものは小さいのですが、境内が児童公園になっていて、素戔嗚尊を御祭神とする氷川神社ですから、新田神社よりもずっと古くからこの地にあったはずです。 さらに鎌倉街道を下っていくと、「十寄(とよせ)神社」があります。ここは矢口の渡しで義興公と一緒に戦って命を討死した家来衆を祀る神社です。家来衆は「十騎明神」と呼ばれ、彼らを葬ったとされる「十騎明神塚」があった場所に十寄神社が造られました。小さな神社ですが、新田神社とセットで参拝すべきです。ただし、先に十寄神社を参拝してお伺いをたててから、主君の新田神社を参拝するのが正しい作法ということを、後から知りました。 鎌倉街道をさらに進んでいき、多摩川の土手の手前に「東八幡神社」があり、多摩川大橋が空襲で焼け落ちたときに被災した、焦げた狛犬さんがいます。そしてこの神社には「矢口の渡し」の碑があります。 ここから堤防沿いの道を渡って多摩川の河原に出ると、多摩川大橋の上流側のところに大田区が設置した「矢口の渡し跡」の案内板が立っています。 往時はかなり賑わっていて、混雑時は順番を待つ人の列が東八幡神社まで続いていたのではないでしょうか? 多摩川は川面に橋の影を映してゆっくり流れています。 渡し跡から多摩川大橋を行きかう車の流れを見上げながら、中世からの時間の流れを感じます。