大学の友達が遊びにきて、再開も楽しんだ
10月22日は昴との結婚記念日でそして今年は昴が亡くなってからずっとリレーフォーライフをしてきた、彼女のお葬式でもあった。
7月に食事に誘われ、2週間前にラインをもらい彼女は私に別れを告げていた事がわかったけど、彼女の生きたい気持ちも伝わり、涙なしではやりとりができなかった。その彼女が生きたいと最期まで願っていたけど、家族に見守られ逝った。会いたかったけど、母の目が離せないので行く事はできなかったけど、たくさんの人が彼女のお別れにきたようだし、家族に当てたノートも残していたようだった。
私も自分の人生、自分らしく過ごしていけたらと思った。
母を10月に家に連れて来て、今は仕事を一旦休んで在宅で母と過ごしている。
もしかしたら、昴の死がなかったら考えなかった事かもしれないけど。
自分を産んでくれた母が施設で薬で寝たきりにさせられてるのは、切なくて切なくて仕方なかった。
実際に在宅でとなると、どんな生活になるかの想像もつかないくらいに今年1月に、外泊をした母とは変わってしまっていた。
それでも、廃人のような母をみた時、このままにはしておけないと感じて施設を出ますと言ってしまった手前、今の施設ほどよくできないと言われ、ほとんどの施設で断られ、そんなにみんな薬で寝かせているのかとか、腹もたったけど、もちろん、今、介護ヘルパーの研修をしているのでその仲間にきくと、良い施設もあるようで、ひどいところにあたったね、と言われてしまった。
結局、サ高住なら入れたけど、常に母をみてくれるわけではないので在宅に決めてしまった。
介護研修のある前後をショートにしてもらい、何とか父と母との3人で毎日大笑いしたり、泣いたり、転んだり、転ばせてしまったりとしながら時間が過ぎていってる。
仕事をしている時とは違う時間の流れを感じている。
介護研修でした事をしようとしても、忘れてしまったり、母だからいいや〜と思ったりして、実践にはなっていないけど、それでも学んでいると、認知の人ってそうだったんだ、とかこんな世界で生きているんだとか、考えさせられる事も多い。
夜は決まって、30分、2人で童謡を聴いたり歌ったりしているけど、昨日、眠気がおそって、2回も母に起こされた。一緒に歌っていると、嬉しそうに笑っている母がいて、茶摘みが流れた時は手遊びをしたかったのに、もうすっかり、忘れていて2人で笑いあった。
確かに、自分で体が動かせなくなってはいるけど、薬で眠らせておかないと行けないような事もなく、施設に対して腹だたしく感じる。施設の事情もあっただろうけど。
92歳の父は大変になったとは思うけど、夫婦にしかわからない時間を2人で居れる事を私は羨ましく思っている。
介護の先生は認知で死ぬんだよ、食べても飲み込む事を忘れて、胃瘻にしないとなればそれは、死んでしまうって事なんだよ、死因は認知にはならないけどと言っていた。
母をみていて、がんより認知のほうが嫌な病気だと感じるけど、認知を十分に堪能(?)している母はどうなんだろう。
この先、どうなるかわからないけど、今は自分の選んだ生活をするのみ。
不安でいっぱいな毎日だけど、母と父と過ごす毎日がきっと私にとって、幸せな時間だったと思える事を願っている。