この年にして、気が付いたかも。

 

旦那がどうたらこうたらではなく、

私自身が不幸だったこと。

そして、その選択を自分がしていたということ。

 

不幸なのは、旦那のせいだ。

こんな狭い家に・・・

会社が・・・

などなどきりがない。

 

何をやっても、私自身を役立たずだと思っていた。

仕事をやめて、主婦という存在をなまけていると思っていた。

旦那にお皿洗ってもらったら、楽だけど罪悪感が半端ない。なんかいじめているような気分。

一日働いているのに、家に帰ってきて家のことまでやらせてって。

 

自分が幸せだったら、周りも幸せ。

言葉としては、間違っていはないとおもう。

でも、その意味を私ははき違えていた。

 

切のない欲が全部みたされたら幸せになると思っていた。

切がないので、満たされることはないだろうけど。

でも、違うんだよな。

 

私、自分自身を一番のけものにしていた。

他者の意見ばかり気になっていた。

他者におこることも自分に責任があるような気がしていた。

家族で誰か問題が起こるとなんとかしないととか。

 

違うんだよね。

 

自分のいる世界は自分のもの。自分の色でいい。

自分が感じたいままに感じさせてあげて。

 

私のキーワードは”自由”だった。

なんだかわからないけど、自由になって息がしたいという想いだった。

現実的に、妻、母親としての役割からフリーになりたいとかそういうのではなかくて。

それが、なんなのかわからなかった。

 

でも、たぶん自由になりたいって、自分が自分にいっていたことだったのかも。

自分で自分を否定してあたかもいないように振舞わないで、気が付いてよというメッセージだったのかも。

 

そう思うと、些細なことが、幸せだと素直に感じるようになった。

ちょうど子供が小さいころふとした一瞬に、生まれてきてくれた子供と旦那と私がいる

その空間が、ほんわか生暖かく感じたような感じ。

そんなものが、毎日転がっているんだよね。

 

結婚してから、よい月日が流れているが、

気が付かないまま、私はこの人と結婚して不幸な人生だった。。。と人をせめて

一生可哀そうな私の人生・・・と悲劇のヒロインに浸らずに、今気が付けてありがたい。

 

そして、私が犬に執着する意味も分かった。

 

まだまだ人の宇宙、自分の宇宙の割り切りができていない。

人が私に自分の悪口を言ったら、その人の世界のことだと心穏やかに心が納得できるようになりたい。

他者の評価ではなく、自分を見つめられる、自分の声を聴くことができ、

誰よりも自分を大事にできるようになりたい。

 

確かに、過去にたくさん点があった。

今はその点を増やし、線に見えるようにする過程なのだろう。

 

人間関係も健康な関係にしたい。

他者を責めるのは、自分が怒っているか悲しんでいる。

責める必要はなく、自分と会話してあげればいいんだ。

 

自分のことは自分がよく知っている。はず。

 

考え始めると頭痛がする。

 

重いよね。

 

時々、まだまだ心を解放すると何が飛び出てくるかわからなくて、

恐る恐る開けようかなぁ~閉めようかなぁ~という感じになる。

 

もう、人を怖いと思いたくない。

楽に生きたい。

満たされた日々を送りたいと強く想う。