パンケーキの焼ける香ばしい匂いが、ふわりと鼻先をくすぐる。
木のテーブルに指を置くと、少しざらりとした感触が心地いい。
私はこのパンケーキ専門店カフェが好きだ。
窓から差し込む自然光、ほんのりと焦げたバターの香り、店内に流れるジャズの音楽。
どれもが料理の味と溶け合って、ひとつの「体験」になる。
私は、料理を“食べる”というよりも“味わう”ことが好きだ。
ナイフを入れたパンケーキの弾力、舌に乗ったときの温度とふわっとした食感、ほのかに香るレモンの皮のすりおろしとはちみつの香り……そんな一つひとつに耳を澄ませる。
五感すべてで、その時間を楽しむ。それが私にとっての外食の醍醐味だ。
その日もいつものように、パンケーキをゆっくりと味わっていた。
ふと、隣の席に若い女性が座った。
おそらく二十代前半、おしゃれでカジュアルな雰囲気で、まるでカフェの風景に溶け込んでいるようだった。
やがて彼女のもとにパンケーキが届いた。
その瞬間、私はどこかときめきを感じるような、映画のワンシーンのような展開を期待していた。
けれど、彼女は実にクールだった。
驚きも歓声もなく、まるで「いつものやつが来たわね」とでも言いたげな落ち着きぶり。
令和世代にとって、パンケーキはもはや珍しいものでも、特別なごちそうでもないのだ。
彼女はスマートフォンをすっと取り出し、小型のライトをかざして、カメラアングルを何度も変えていた。
トッピングのベリーの配置、ホイップクリームの高さ、粉砂糖の舞い具合まで、念入りに確認しているようだった。
やがて彼女は何枚もの写真を撮り、いくつかを見比べて、一枚を選び、画面をタップして投稿したようだった。
パンケーキにはまだ手をつけていない。
私は思わず、紅茶を一口含んだまま観察してしまっていた。
彼女にとって外食は、味わうものではなく、“切り取る”ものなのかもしれない、と思った。
それは、私の知っている外食とはまるで違っていた。
私が若かったころ、食事の記録といえば、せいぜい家族写真の端にうつり込んだ手料理かバースデーケーキ、旅先での旅館の夕食くらいだったような気がする。
料理を撮るなんて発想自体がなかったし、そもそも写真を撮ることも、年に数回の“イベント”だった。
だからスマートフォンを器用に操る彼女の姿は、私にとっては少し不思議な光景だった。
でも、それは不快ではなかった。ただ、時代が変わったのだと、静かに思った。
きっと彼女にとって、この一枚は「今日の幸せの証」なのだろう。
誰かに見てもらうためだけではなく、自分の記憶のためにも。
そのことに気づいたとき、私は少し心が和らぐのを感じた。
私が「味で記憶を残す」ように、彼女は「画像で時間をとどめる」のだ。
方法は違っても、どちらも、“いま”という瞬間を大切にしているのだ。
たとえば、昔、母が作ってくれたホットケーキのにおい。
焼けすぎてちょっと苦かったけれど、それすらも愛おしい記憶だ。
味わい方も、記録の仕方も、人それぞれでいい。
そう思ったら、昭和世代の私にも、彼女のしていることが少しだけ身近に感じられた。
彼女はやがてスマホをしまい、ゆっくりとナイフとフォークを手に取った。
そして、パンケーキを一口食べて、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、まるで「五感」で食べているようだった。
もしかしたら彼女も、写真を撮るだけでは満足できない人なのかもしれない。
レンズの向こうにある時間と、今この瞬間の味わい――どちらも大切にしたい人なのだろう。
私は静かに席を立ち、ほんの少し背筋を伸ばして外の光の中へ出た。
やわらかな春の風が、コートの裾を揺らした。
今日のパンケーキの味も、隣の席の彼女の笑顔も、たぶん忘れない。
スマホに画像は残していないけれど、私はある日のこの午後の時間を、しっかりと心に焼きつけたいと思ったのだ。
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