絶対視点と相対視点で愛が逆転する憎悪。映画アマデウス
フェイスブックのプロフィールを編集してて
好きな映画に「アマデウス」を入れたところ
いいだりらちゃんが こんな記事を書いていた

★DVD鑑賞!!『アマデウス』
映画をみるのは どっちかといぅと 結構苦痛な私ですが
そんなゆみあが この「アマデウス」という映画だけは
何度も何度も 繰り返し繰り返し 見続けるという映画でもあります。
映画じゃないけど 夢の遊民社の「半神」って演劇のビデオも
同じく 何度も何度も 繰り返し繰り返し見続けました。
あとテレビドラマの「野ブタ。をプロデュース」も 同じくです。
どの作品からも 同じメッセージをうけとっているみたい。
これって 自分の価値基準が みえてきそうですね...。
映画「アマデウス」は モーツアルトをこよなく愛する
オーストリア宮廷の音楽家 サリエリが モーツアルトを
殺したと独白するシーンからはじまる 長編映画。
モーツアルトの作品を 愛して愛して愛しているのに
その天才と 自分の凡庸さを比較することで
天才モーツアルトへの愛は 憎悪へと変わってしまう。
これって 人間心理をすごくついているのだろうけど
天才は 絶対的感性でもある 宇宙感覚を刺激するので
どんな人にとっても 素晴らしいという感動をよびおこしますね。
そんな誰かの天才の部分と 自分とが
同じでないと考えることによって マイナス世界が生まれてしまう。
そして 駄目な自分という烙印を自分におして
劣等感の中で 生きていくことになってしまう。
そして そういう時に 自分のなかにある天才は
完全に忘却のかなたであり ないことになってしまう。
サリエリは 能力音楽家であった というところで
強みと資質を 完全に活かしきっていたモーツアルトに
完敗感と挫折感を味わって 愛を憎悪に転換することで
自分を優越感でみたすことで 自分の尊厳を護ってゆく...。
サリエリも 自分自身の 強みと資質を みていけさえすれば
そんな優越感で 自分の尊厳を護らなくても
そして 殺人をおかさなくても よかったのにね...。
こういうコトって 現実の中で すっごくおきているよね。
殺人までは 侵さないにしても 心理的に相手を
混乱に貶めたり ネガティブに誘導したり...。
私は そういう人間の心理が 限りなく恐怖でもあって
そうなっていなくても そんな目に合いそうな予感というか
妄想におそわれてしまうくらいに 恐かったりして
今でもしばしば そういった予感がすると 自分を護ろうとして
相手を遠ざけるように 働きかけてしまいます。
ゆみあの弱点でもありますね...。
絶対的感性と 相対的感性と どちらも生きていく上では
必要不可欠。
絶対感というのは 無限界の真理とマッチングするときに
人の内側に 自動的におこる感覚だと思います。
私はこの感覚が とても強い。
昔から どこの宗教に入っているの?とか
何の教義を元にしてるの? とか言われることもあるけど
外から入れた情報はなくて 自分の内側の感性にそっています。
そこからくるのが わかるとか 知っているという感覚。
絶対的感性で表現しはじめると それが相手にとっては強く
感じてしまうようで 相手に同じ絶対感が生まれないと
かなり拒否られてしまうこともあります...。
逆に 私は相対的感性が低くて 相対感でコミュニケーションを
とってこられると 何のコトをいってるのか わからなかったり
することもしばしば。
なのだけど 自分を自分としてみていくためには
他者とくらべる相対感が 必要なのですよね。
だいぶと育ててきているつもりな 今日この頃です。
サリエリは 絶対感覚の持ち主だからこそ
天才モーツアルトの絶対感覚の作品を 愛することが出来た。
そして 相対的に自分とモーツアルトを比較した時に
自分の凡庸さに敗北と挫折を味わい モーツアルトへの
愛が憎悪へと 変わっていったということですね...。
相対的に自分を相手をみるときに 自分のダメなところ
相手よりも劣っているところに 着目してしまうと
そうなってしまうということです。
自分と相手は もとから違うものであり
天才は誰にでもあるのに どこに天才があるのかが
わからないために ないものとしてしまっているだけ。
世界平和がおとづれる世界であるためにも
愛を憎悪に貶めて 自分の尊厳をまもらなくてはならないという
逆説的な言動をとらなくてもすむためにも
自分の強み、資質、価値基準が どこにあるのかを
しっかりとみていって 活かしていくしかないのだと
思うのですよね。
なんてコト 書き始めたら勝手にすすんでしまいました...。
好きな映画に「アマデウス」を入れたところ
いいだりらちゃんが こんな記事を書いていた


★DVD鑑賞!!『アマデウス』
映画をみるのは どっちかといぅと 結構苦痛な私ですが
そんなゆみあが この「アマデウス」という映画だけは
何度も何度も 繰り返し繰り返し 見続けるという映画でもあります。
映画じゃないけど 夢の遊民社の「半神」って演劇のビデオも
同じく 何度も何度も 繰り返し繰り返し見続けました。
あとテレビドラマの「野ブタ。をプロデュース」も 同じくです。
どの作品からも 同じメッセージをうけとっているみたい。
これって 自分の価値基準が みえてきそうですね...。
映画「アマデウス」は モーツアルトをこよなく愛する
オーストリア宮廷の音楽家 サリエリが モーツアルトを
殺したと独白するシーンからはじまる 長編映画。
モーツアルトの作品を 愛して愛して愛しているのに
その天才と 自分の凡庸さを比較することで
天才モーツアルトへの愛は 憎悪へと変わってしまう。
これって 人間心理をすごくついているのだろうけど
天才は 絶対的感性でもある 宇宙感覚を刺激するので
どんな人にとっても 素晴らしいという感動をよびおこしますね。
そんな誰かの天才の部分と 自分とが
同じでないと考えることによって マイナス世界が生まれてしまう。
そして 駄目な自分という烙印を自分におして
劣等感の中で 生きていくことになってしまう。
そして そういう時に 自分のなかにある天才は
完全に忘却のかなたであり ないことになってしまう。
サリエリは 能力音楽家であった というところで
強みと資質を 完全に活かしきっていたモーツアルトに
完敗感と挫折感を味わって 愛を憎悪に転換することで
自分を優越感でみたすことで 自分の尊厳を護ってゆく...。
サリエリも 自分自身の 強みと資質を みていけさえすれば
そんな優越感で 自分の尊厳を護らなくても
そして 殺人をおかさなくても よかったのにね...。
こういうコトって 現実の中で すっごくおきているよね。
殺人までは 侵さないにしても 心理的に相手を
混乱に貶めたり ネガティブに誘導したり...。
私は そういう人間の心理が 限りなく恐怖でもあって
そうなっていなくても そんな目に合いそうな予感というか
妄想におそわれてしまうくらいに 恐かったりして
今でもしばしば そういった予感がすると 自分を護ろうとして
相手を遠ざけるように 働きかけてしまいます。
ゆみあの弱点でもありますね...。
絶対的感性と 相対的感性と どちらも生きていく上では
必要不可欠。
絶対感というのは 無限界の真理とマッチングするときに
人の内側に 自動的におこる感覚だと思います。
私はこの感覚が とても強い。
昔から どこの宗教に入っているの?とか
何の教義を元にしてるの? とか言われることもあるけど
外から入れた情報はなくて 自分の内側の感性にそっています。
そこからくるのが わかるとか 知っているという感覚。
絶対的感性で表現しはじめると それが相手にとっては強く
感じてしまうようで 相手に同じ絶対感が生まれないと
かなり拒否られてしまうこともあります...。
逆に 私は相対的感性が低くて 相対感でコミュニケーションを
とってこられると 何のコトをいってるのか わからなかったり
することもしばしば。
なのだけど 自分を自分としてみていくためには
他者とくらべる相対感が 必要なのですよね。
だいぶと育ててきているつもりな 今日この頃です。
サリエリは 絶対感覚の持ち主だからこそ
天才モーツアルトの絶対感覚の作品を 愛することが出来た。
そして 相対的に自分とモーツアルトを比較した時に
自分の凡庸さに敗北と挫折を味わい モーツアルトへの
愛が憎悪へと 変わっていったということですね...。
相対的に自分を相手をみるときに 自分のダメなところ
相手よりも劣っているところに 着目してしまうと
そうなってしまうということです。
自分と相手は もとから違うものであり
天才は誰にでもあるのに どこに天才があるのかが
わからないために ないものとしてしまっているだけ。
世界平和がおとづれる世界であるためにも
愛を憎悪に貶めて 自分の尊厳をまもらなくてはならないという
逆説的な言動をとらなくてもすむためにも
自分の強み、資質、価値基準が どこにあるのかを
しっかりとみていって 活かしていくしかないのだと
思うのですよね。
なんてコト 書き始めたら勝手にすすんでしまいました...。