宇喜多詮家(あきいえ)と言う名前ではピンと来ませんが、

坂崎出羽守直盛と言えば、ご存知の方も多いのでは?

千姫を大阪城から救出した人として、知られていると思います。

その所縁の富山(とみやま)城跡に、昨秋登ってみました。


富山城は岡山市北区の矢坂山(131.3m)にあった連郭式中世山城で、

仁和元年(885)に富山重興がここに築城したと言われています。

応仁元年(1467)富山長頼は松田元隆の攻城を受けて自害し、

富山氏は滅亡、元隆がこの城を改修し居城にしました。


約100年後の永禄11年(1568)宇喜多直家が攻めて、松田氏は滅亡します。

直家の弟忠家が富山城主となり、その子詮家が継ぎますが、

慶長4年(1599)の宇喜多騒動で、詮家は城を捨て大阪へ出奔しました。

お家騒動で従兄の宇喜多秀家と不仲だった詮家は、

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍につき、

戦功により津和野3万石を与えられます。


宇喜多の名を嫌った徳川家康の命により坂崎直盛と名乗り、

城下町建設や検地、城郭の大改修を行なって、

藩政の基礎を固め、名君と言われました。


津和野城下の側溝には今でも錦鯉が沢山泳いでますが、

これは蚊の大量発生に備えて、直盛が鯉の養殖を始めたのだそうです!

お蔭で風情のある城下町になってますよね。

元和元年(1616)、直盛は大坂の陣で千姫救出に活躍し、

元和3年(1617)7月20日に1万3468石を加増されます。

しかし、9月11日千姫事件の余波により、直盛は自害したため、

改易処分となり坂崎氏は断絶しました。

千姫事件

豊臣秀頼死後、千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、

公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、

突然本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された直盛が輿入れ行列を襲い、

千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害しました。



笹ヶ瀬川を渡り、北向八満宮の方から石切り場を経て登りました。
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魚見山のこうの岩から岡山市街が見渡せます。

この市街地のほとんどは瀬戸の穴海と呼ばれた海でしたが、

宇喜多時代に干拓が始まり、江戸時代から昭和時代まで干拓が続き、

穀倉地帯となりました。
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児島湾が光ってますが、手前も海だったので魚が跳ねてるのが見えたのでしょう。
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矢坂山頂(131.3m)にある二の丸でお弁当を広げました。

南の市街地から児島湾まで見えます。
          

本丸へ行く途中の十字裂石、大岩が十字に割れてました!
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春には白いお花が綺麗なガマズミも、秋になると真っ赤な実を着けます。

枯葉の中で宝石のように輝いてました。
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平な場所に出ると本丸跡でした。
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本丸跡から、北側の一宮方面もよく見えます。
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当時の石垣
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連郭式山城だったので、下山途中にも石垣が見られました。




かなり麓に落ち葉に埋もれた井戸の跡がありました。


慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍の宇喜多秀家は敗れ、

備前国には小早川秀秋が入封し、翌年富山城は廃城となります。

岡山城の石山門(第二次大戦で焼失)は、この城の大手門を移築した伝えられています。


現在は所々当時の石垣が遺るのみですが、

対抗する毛利氏を意識したかなり立派なお城だったのでしょうね。