江戸時代といえば思い出すのは、
そう、“すり抜けの歴史”。

すり抜け…現代社会においてはバイクのライダーや走り屋、もしくは通勤ラッシュの駅構内等で行われる、車もしくは人の間ギリギリを通り抜ける行為である。
その歴史は、江戸時代中期にまで遡る━━━━━。

江戸時代、旧甲州街道において武士達が町人達で賑わう街道を如何に速く通り抜けるかという遊びが流行した。
町人たちに迷惑をかけずに、かつ、出来るだけギリギリを通り抜けることが粋とされた。
ルールとして、全力では走らない、体当たり等は禁止、すり抜けに興じる他の武士の進路を塞ぐ行為等は禁止されてはいなかった事が、当時の文献に記されている。
すり抜けを当時は“摺り抜け”と表記していたようであるが、これは武士達の摺り足が由来となっているものと思われる。
この遊びは、やがて全国へと広がりを見せ、峠区間では馬に乗ってすり抜けを行う者も現れたと言われている。
文献によれば、武士達はすり抜けをする際に周囲へ注意を促す為か「也(や)、也、也」という声を発しながら通り抜けていたようである。
しかし、すり抜けの流行が広まるにつれ、問題も頻発していた。
町人との衝突事故、建物等への接触事故、水路への転落事故等、次第に事故の件数が増えていき、峠区間では馬のアンダーステアによる林への転落事故や、茶屋に衝突する事故が多発したようである。
そしてついに死亡事故が発生したのである。
安永5年、武蔵国府八幡宮付近の街道にて、三人の武士達がすり抜けに興じていた。
長屋から出てきた女性と、米俵が重ねて積まれていた荷車との間を通り抜ける際、三人目の武士の小袖が米俵を荷車に固定していた縄に引っかかってしまうが、武士はそれに気付かずそのまま通り過ぎ、縄が解けてしまった。
そして荷車に積まれていた5個の米俵が崩れて落下した際、近くにいた子供に直撃。
子供は即死してしまった。
死亡した子供は、その地域の庄屋の一人息子であり、激怒した庄屋の主人は事故の件を幕府に報告。
同じ頃に峠区間でも飛脚が馬に撥ねられる死亡事故が発生し、事態を重く見た幕府は、摺り抜け禁止令を発布した。
しかしすり抜けの流行は収まる気配を見せず、町人達は特にすり抜けが多い場所に縄を張り、平賀源内も特定の速度を超えて武士が通過した際に地面に設置された縄を自動で巻き上げるという、現代におけるオービスに似た役割の装置を開発する等の対策を講ずるも、武士達は他の区間ですり抜けを行うようになり、結局はイタチごっことなってしまう。
すり抜けを行う者と、それを取り締まる者との攻防は、この頃がルーツだと言われている。
尚、すり抜けは当初昼の時間帯におこなわれていたようであるが、摺り抜け禁止令が発布されて以降は夜間の遅い時間に行われるようになった。
現代において走り屋たちのすり抜け行為が夜に行われる場合が多いのも、一説によればこれが発祥ではないかと言われている。
最終的に幕府は、すり抜けを行った武士達には切腹を命ずるようになり、江戸時代におけるすり抜け行為のブームは急速に収束していくのである。

時代は流れ、明治時代へと移行する。
明治時代では、すり抜け行為が行われたという文献は確認されていないが、馬車の車輪を滑らせるという遊びが流行。
これが現代におけるドリフト走行の発祥である。
広い道路の曲がり角等に進入する際、鞭を叩き馬を加速させ、途中で一気に手綱を引き荷重が前方に集中した所で再び鞭を叩く事によって立ち上がる、という方法がとられていたようだ。
しかしこれもやはり事故が頻発するようになり、ある時ドリフトをした馬車が巻き上げた砂利が付近を歩いていた女性の顔に直撃、女性の顔には傷が残ってしまう。
その女性は名家の一人娘であり、激怒した女性の父親は事故の件を治安警察に報告。
事態を重く見た治安警察は、やはりその行為を禁止した。

さらに時代は流れ、高度経済成長期。
モータリゼーションの発展により、裕福な家庭の若者たちの間において、自動車を利用したすり抜け行為やドリフト行為が行われるようになる。
裕福な家庭の若者たちは勉学にも長けていた為か、江戸時代の文献等によってすり抜け行為の存在を知ったという説がある。