多分そのうち消します。






生まれてはじめて、アルバイトをサボった。
理由は、バイトに向かう時にふと見上げた星空が、現実のものとは思えないほど綺麗だったから。
きっと誰にも理解されない理由だろうけど、満天の星が、全てを放り投げてこちらだけを見てくれと訴えているように見えたのだ。無限のひかりの頼み事は、私に拒否するという思考を与えなかった。星たちを見た瞬間に、私は、彼らを見守らなくてはいけないと強く思った。
携帯の電源を切ってから、自転車の方向をぐるりと変える。さっき素通りしたコンビニエンスストアに入店して、温かいココアと肉まんと、適当なスナック菓子を買った。
どこで星を眺めようかな、なんて考えながら、自転車の籠に買ったものを入れる。とにかく、彼らを絶好の場所から見たかった。この街は利便性が高いし尚且つ娯楽施設も多くて退屈しないけれど、彼らを眺めるには余りにも邪魔なものが多すぎた。
デパートの屋上駐車場にでも向かおうか。それが最初の案だった。しかし間髪入れず脳内の突っ込み役の私が声を荒げる。それはだめよ、私くらいの歳の娘が駐車場にひとりでいて、しかもぼーっと星を眺めているなんて不審すぎるわ、補導よ補導。何故か女言葉を使う脳内の私に、そうだねと――勿論心の中で――同意してから、じゃあどうしようと再び悩む。誰にも何にも邪魔されない場所。冬のこの寒い中ずっと外にいるのは堪えるものがあるので、室内だと尚良い。そんなところあるのだろうか、とペダルに引っ掛けた足を回す。それを抵抗なく受け入れ、車輪はシャーと音を鳴らしたが、駐輪した状態なので前には進まない。

あ。
その無機質な音を聞いて何故か一人の人物が頭に浮かぶ。彼女、彼女の家なら。

**
自転車で5分、そしてそこから電車に乗り換え20分。更に歩いて5分。目的地にたどり着く。ここまで来ていなかったらどうしよう、なんて考えていたが二階の電気が点灯しているのがカーテンから漏れ出る光で分かったので安堵する。
ピンポン、控えめにインターフォンを押すが響く音量は変わらない。人の家のインターフォンを押す瞬間から目当ての人物が出てくるまでの間は苦手だった。性格的なものもあるが、今回は訪れた相手が彼女だからというのもある。
インターフォンについているカメラがじろりと私を見つめる。ぶち、と音がして、機械を通して声が聞こえる。
「嘘、なんで来たの? え、今出るから待ってて」
またぶち、と音がして、思ってたよりはやくドアが開いた。
「小学校ぶりじゃない?久しぶりすぎて誰かと思った」
私が訪れたのは、4年間なにも連絡を取っていない、大して仲良くもなかった、小学生時代のクラスメイトだった。


**

「正直もう会わないと思ってたからさあ、マジびっくりした」
彼女は中学で『悪いトモダチ』に引っかかって、ろくに勉強もせず過ごしてしまったらしい。定時制の高校に進学はしたものの、途中退学してしまった。小学校時代から一緒の友人がそう言っていたが果たして事実なのだろうか。同郷のよしみがあるので、純粋に心配だった。
小学生の彼女は真面目とまでは言えなかったけれど、芯が通っている女の子であった、と、記憶しているが、私の思い出補正だったのだろうか。マジびっくりした、のは私も同じだった。少し外にはねていた黒髪は真っすぐな金色に変わっていた。もともと薄かった眉毛は完全に存在していた場所から消えており、なにも粉が塗りたくられていないその顔は間抜けそのものだった。
「……変わったね」
失望は、なかった。人は環境によって変化するものだ。彼女も私を別人のように感じているだろう。
「何年も経ってるしね。背伸びたね? 昔こんなだったじゃん」
親指と人差し指で2センチほどの空間を作りながら、彼女はどこか他人行儀な笑顔を浮かべたので、私もまた、そんなに小さくなかったよ、と愛想笑いを返す。
「んで、どうしたん?」
「星が見たくて」
「ほし?」
ぱちくりと瞬きをする彼女に、私は、そう、星空、と肯定する。
「都市部から若干離れて高い建物ないここからなら、綺麗な星空が見えるかなって」
「待って。家どこだったっけ」
「前の家からちょっと引っ越したんだ。ここから電車で20分くらいのところだよ」
わざわざ電車で来たの? こんなさむい夜に? 目を見開いて彼女は信じられないという表情を見せた。そして、とりあえずあたしの部屋あったかいから入って、と中に通される。玄関先には靴が散乱していたが、それとは対照的に家の中は暗く、彼女の声以外の音はなにも聞こえない。親御さんはどうしたの、そう聞いてはいけない気がして、黙って彼女のあとについていった。
「散らかってるけど気にしないで」
ファッション雑誌、ぬいぐるみ、アルコールの缶、菓子の空箱、洋服。色々なものが床に散っており、一瞬顔を顰めてしまうが、突然訪れたのはこちらだったので口をつぐんだ。
彼女はそれらを足先で除け、座椅子に腰かけた。ぎし、と音が鳴る。
「うちとまってくの」
「え?」
次に呆気にとられたのは私のほうであった。
「わざわざここまで来て10分くらい見たら帰るなんてことないでしょ?」
彼女はどうやら読心術の使い手だったらしい。私が懇切丁寧にお願いしようと思っていたことを先に読まれて、ただ驚く。
「いいの?」
「いいよ、そのかわり」
彼女は私の手に握られていたコンビニの袋を指さして、
「その中のお菓子半分ちょうだい」
にやりといたずらな笑みを浮かべた。



**


がらがら、引き戸が開く。
若干冷めてしまったペットボトル入りのココアを飲みながら、私はつっかけを借りてベランダに出た。
寒さに肩をちぢこませ寒い寒いと言いつつ空を見上げると、そこには、さっきとは比べものにならない程広くて美しい、星空。
「綺麗でしょ」
後ろから彼女の声がした。私は彼らから目を離すことはせず、うん、と返事だけをする。
「ちょっと話そうか」
彼女の声が横に移動する。ぎ、と柵が少し揺れた。彼女が体重をかけたのだろう。
「うちさ、中学入ってからパパとママ離婚しちゃったんだ」
突然告げられ、思わず星から目を離す。彼女の横顔は表情もかたちも、前となんにも変わっていなかった。
「んでそんなあたしを支えてくれたのが、その時仲よかった友達なんだけど。その子は人情に厚い代わりに、素行は最悪だったよ。友達は大切にしてたけど、自分を大切にできない子だった」
反応が、できない。何を言っていいのか分からず、口は微かに動くだけで、音を発することは不可能だった。
「あたしはそんなあいつと落ちぶれることが、あいつを大切にすることだと思ったんだ。あいつが自分を愛せない分あたしがあいつを大切にしてやろうって思ったの」
彼女はただただ星を見つめている。……見つめているのだろうか? 私には、何も見ていないように見えた。視線の先には広大な星空が広がっているはずなのに。
「私を引き取ったママはいっぱい泣いたよ。自分のせいで娘がグレた、娘は自分を恨んでるって思ったみたい。あたしはパパもママも好きだったから、恨んでなんてないのに。そこから、ママは罪悪感からか、あたしを叱ることはしなくなった。あたしはそれが一番悲しかった。悪いことをしてるって自覚があったからさ、叱ってほしかったんだ」
一呼吸置く。
「いつからかあたしはママに叱られるために悪いことをするようになった。親友と、いろんなことをやったよ。家に3日帰らなかったこともあるし、飲酒もタバコもやった。髪も見ての通り、無許可で染めた。んでね、ある日、その子が死んだ」
「えっ」
思わず声を上げる。
「アルコール中毒で倒れて死んだ。その場にはあたしと、あと何度か遊んでもらってた先輩が2人いて、みんなで飲んでる最中だった」
彼女の声が、だんだん弱くなる。淡々と話していた声が震えだしたのを聞いて、私もずくずくと胸が痛みはじめる。

「あたしは、自分のために親友を利用して、親友を殺した」

ぽろ、と一筋の涙が彼女の頬を伝う。それを皮切りにとめどなく涙が溢れ出てきた。それでもなお彼女は星空の、その先にいるひとを見つめていた。
「そんなことないよ」
いい言葉が見つからない。なんと言ったらいいのかわからない。

「そう言ってくれるんだね、ありがとう。でもこれはあたしの罪なの。あたしはもうまともには戻らない。ママに叱られたいとも願わない。誰にも止められることなく堕ちていく、それがあいつへの贖罪」
部屋に散乱していたアルコールの缶を思い出す。
「死んだ親友さんは、そんなことしても喜ばないと思うよ。幸せになってほしいって願ってるはずだよ」
「そうかもね。あいつはほんとに優しい奴だったから。今も、あたしの幸せを願ってくれてるかもしれない。でもあたしは自分が幸せになることが許せない」
はやくしにたい、小さな声で彼女は呟いた。
それがとても悲しく思えて、そんな風に言わないで、と背中をさすると、彼女はベランダに出てからはじめて私のほうを見た。寒さからか泣いているからか顔のいたるところが真っ赤に染まっている。
「こんな話しちゃってごめん。見ようか、星」
もうきっと私にはどうする事も出来ないのだろう。なにも映らない、彼女の瞳。私も、星も、なにもかも。

そのあと私と彼女は無言で空を見続けた。彼女は虚空を、私は星空を。寒くなってきたら部屋に戻って窓越しに見つめていた。
彼女に感謝を告げて、もう彼女と会うことはないだろうと思いつつ、私は始発の電車で帰った。バイト先にも両親にも鬼の形相で怒られたし、心配もされた。何私はそのとき脳裏に星空の下少女ふたりが微笑み合っている情景が浮かんで、どうしてか涙が止まらなかった。あの星空は、きっと忘れられない。