感情の解放の意味を知り、
マスターする事は、今とても大切です。

それにより、私たちは、
古い地球の生き方を終了し、


新たな選択ができます。



一つ前の記事の続きです。






エネルギーは、こじれて、ねじれてしまったがゆえに、


起源を忘れて、源を見失っています


だけど、感情は、ブーメランのように
戻ってくる性質をもちます。


エネルギーは、いわば本能的に
還る場所を知っていて、
そこに戻ろうとします。



そのいのちの姿を、カルマといいます。


カルマは、よく誤解されているけれど、
罰ではないのです。 


かつて、前世で悪いことをした報いで
その罰を受けて、今、ひどい目にあっている、などのように、

ペナルティとして、受けとめる事がカルマではないのです。



それは、一つのエネルギーの両面を経験する事で、そのものの愛の本質を学び、
愛に還ろうとする  いのちの働きなのです。



かつて、放ったこころが
間違いなく自分に還るのは、


その時、時空を旅してたどり着く感情が
愛を探しているからです。



宇宙が、愛に戻るのは、かたよりをなくし
バランスをとる為です。



宇宙は、バランスを保って、
愛を輝かせていきます。


進化の道のりは、バランスです。



つまり、与えるエネルギーと、
受けとるエネルギー。


発信するエネルギーと、
受信するエネルギーと。


陰陽、結びあって、真ん中を知るのです。



カルマとは、幾重もの生と死の間で、
魂が愛を知るバランスの姿なんです。



いのち、とは、バランスによって
愛を学び理解するからです。


残念ながら、私たちは、
与えると受けとるの
どちらか片方だけでは、本当の愛を知る事ができないのです。


両方の立場 を知って始めて、いのちに響いてくるものがあっていのちが成長します。



例えば、ひたすら庇護を受ける子供時代には、見えていない事はあまりにも多いでしょう。


「お母さん、なんでもっと愛してくれないの?親ならこうするものでしょ?」と、
反抗期には、叫ぶこともあるかもしれません。


子供の立場の内は、もらって当たり前という意識しかないから、見えないものが多いです。でも、子供時代は、それが経験のうちでしょう。


だけど、自分が親になり、ものすごく頑張っているんだけど、届かずに、自分の子供に「どうしてもっと愛してくれないの!」と叫ばれて、その声を受ける立場になって初めて、


かつての、
おかあさんの心を知ります。


ああ、お母さんだって、一生懸命だったんだ。
お母さんだって人間だから、自分の未熟さに泣きながらいたんだろうな。

あの時、お母さんは誰からも感謝される事もなく、どんな気持ちだったろうと、
気持ちが見えてきたり、

疲れていたはずなのに、又、あんな事言ってしまった後なのに、

それでも次の日、変わらずに作ってくれてたお弁当や、朝食の意味を知ります。


ありがたみが見えるようになる。
思いやりという、深い心を知るでしょう。



嫁いだ時は、例えば お姑さんが苦手で、
いやだな、かんじ悪いななんて思っていて、夫婦二人で出かける度に何だか機嫌が悪くなるお姑さんに、嫉妬なのかしら、と冷ややかに思っていたりした心も。



例えば、自分に息子ができて、そのかわいい息子がやがて愛する人を迎えて、結婚し、
今度は自分がお姑さんと呼ばれるようになった時、


なんだか、置いていかれるような、
自分の存在価値がなくなるような、
大事なものが離れていってしまうような、心細さでいっぱいで、苦しくてたまらない気持ちに出会ったりして。

自分が、「おかあさん、おいしいケーキ買ってきたの、一緒に食べましょ」と、
「おかあさん、感謝しています。」と、

息子さんやお嫁さんに、大事にしてもらいたい立場になって初めて、

あの時、おかあさんも、さみしかったのかな、心の中で線を引かないで、せめて優しい言葉ひとつ届けられたらよかったと、もうひとつの心が見えてくるのです。



そのもう片側の心が見えてはじめて、
バランスがとれると、



心は、優しくなるのです。


魂が成熟していき、
あたたかい愛を見いだします。



自分側ばかりじゃなくて、
相手の心までも、視野に入れて
思いやれるよう、


 心のフィールドが広がっていきます。



心が愛を学ぶ、
その時、カルマは一段上がって
愛に溶けていくのですね。




与えて、受けとるという、バランスが
生と死を越えて、現れてくるのを、また
カルマ といいますが、



この場合、

私たちが受けとる気持ちは、
すべて、結果 の世界です。



つまり、私たちが経験する感情は、
パートナーがきっかけで出てこようと、
上司から出てこようと、
たまたま電車でとなり合わせた人から、出てこようと、


 あなたの心に湧いた感情


すべて、それは、 

あなたがかつて放った感情が
あなたに帰ってきてくれた、
結果 の段階です


つまりそれは、解放のプロセスの
最終段階に入っている心なのです。


その感情が、あなたの中で苦しみを終え
美しいものに昇華しようとしていますよ、
それができるタイミングにきましたよ、という時です。




そして、かつての心が、いよいよ帰ってきた瞬間、


新しい 選択 のタイミングがやってきます。 



選択 とは、

 の中に還してあげるか、
また、カルマ のままにしてはじくか。




例えば、オフィスで誤解があり、ミスを自分のせいにされてしまい、「いくら私じゃありません」と言っても、誰も信じてくれず、皆からヒソヒソされて、きつい目で見られてしまい、

翌朝出勤する時にも、どんな顔でくるのかしらと、皆の視線がきつい、と。

興味本位や、疑いや、冷たさの混じる視線と出会う、そんな経験があったとします。


その時、あなたは、何があったか以上に、
今まで一緒に仕事をしてきた人々からの、
その「視線」に傷ついて、ショックを受けたとします。


本当は、あの人がこうした、間違えた、という事よりも、


その時、自分が感じているフィーリング」それが、カルマさんなんです。

誤解されて、その事自体も苦しいけれど、一番堪えたものが、周りからの
『視線』だとすれば、


それは、かつて転生の中で 何度も、あなたも又、知らないがゆえに
『視線』で誰かを追い詰めてしまった事がある事を、意味しています。


今、あなたが感じているフィーリングこそが、かつてどこかの時代に、あなたの無意識の視線を受ける事によって、

誰かの胸に発生してしまったエネルギーが、あなたに帰ってきたものです


ここだけみたら、かつて放ったものの罰みたいに、確かに見えてしまうのでしょう。


でも、そうではないんです。




本来、私たちの体は
魂の愛のエネルギーを表現する為にあり

その為に授かりました。


つまり、私たちの『目』があるのは、
美しい波動を見ること、見て学ぶこと、
そして、

まなざしで慈しみ、あたためる事


視線というのは、目から出ているエネルギー、オーラの事ですね。


見守る』『目で頷く』『まなざしが注がれる』『目が語る』などのように、


本来の目、視線の役割は、
『優しさで包むこと』です。


例えば、親が我が子をお守りし、愛の表現となるのは、

いつだって 見ていてあげること


また、愛する人と心通いあうのも、
友と信頼が通うのも、


目だけで、わかりあう事ができるのは、


目が、いのちの底にあるあたたかい愛や
信頼を送るツールだからです。





例えば、叱られた。

でも、見上げたら あの人の目は優しかった。だから、痛かったけど、愛が心にしみてまた頑張りたくなった。


皆に、誤解された。

そこに言葉はなかった。
だけど、目があったら、あの人の目は
思いやりに満ちていて、優しく受けとめてくれていた。あの人は私を、信じていてくれるんだ、そう瞳が語っていた。


そんなふうに、言葉を越えて
愛を伝えるものが、まなざしです。


見ていてくれる人がいる。
そのまなざしの優しさ。


愛を伝えるあたたかいまなざし。


信じて、見守ってくれる優しい瞳が
そこにある。


瞳、まなざし、視線は、神様の愛を伝えるツールです。


だから、まなざしのカルマは、一生懸命、そのあたたかい愛の中に還ろうとして、


バランスをとり、

今、帰ってきたのです。



その時、視線のカルマさんは、
その本来の自分の本質へと
還ろうとして戻ってくるのです。




ただ、自分の感情エネルギーの由来を忘れていたなら、

私たちの多くは、視線はもちろんですが、
自らの心や行為が、エネルギーを発するなんて、意識はほとんどしていません。

だから、最初は愛から生まれているものを
無知ゆえに、こじらせて、本来の使い方ではないあり方で、使ってしまいます。


だから、自分のハイヤーセルフは、自分の本来のエネルギーを取り戻して、目を覚まそうとするのですね。



例えば、オフィスで誤解された時に、
自分が感じたフィーリングを受けとめると、


それが、かつて誰かがあなたから放たれて、よじれたフィーリングだったのです。


それが、よじれたまま帰ってきて、
与えている時には、気づかなかった事が

受けとめてみると、いのちは理解します



こんなエネルギーいやだな。
こんなの、違うな。


だからこそ、

じゃあ、どうしたい?

あなたは、自分の視線を人生の中で
どう使いたい?

そんな質問に出会うのです。



与えたものを、今受けとめた。

『こういうエネルギーがあったけれど、あなたは、どうしたい?』と、



次の選択がやってきます。



もちろん、過去世が見えなければ
本当かどうかはわかりません。


でも、そんな視点で見てみてあげてください。


自分の魂の経験はすべて、今のフィーリングに現れているものだからです。



愛を学ぶ為には
そのフィーリングから逃げないで
感じぬいてあげる事です。


ひきうけていくのです。



その、フィーリングを。



そうしたら、今の位置ならきっとわかります。
 


オフィスで、痛い視線に出会って、
自分が嫌で、不安で、苦しくて、孤独で、
心がぺしゃんこ。



或いは、最初あからさまに嫌な視線だったのに、違うとわかると、手のひらをかえす人を見て、その態度に傷ついたりもする。



その時、あなたに湧いたそのフィーリングこそ、


かつてしらずに、自分が
誰かに放っていたものです。


自分が経験する。
受けとるというのは、


かつて、あなたから出力しているという
意味で、


その縁がないのなら、
その経験は現れないし、

また、例えその経験があったとしても、
そのフィーリングがわく事はありません。


そのフィーリングを経験するという事は、
あったという意味で、
あなたがかつて送りだしたという事です。



この時、腹をたて、
人を恨んで、心を閉じる選択もできます。


でも、そこから学んで、引き受けて解放し、愛に還っていく選択もできるのです



嫌なものだな、視線っていうのは、
言葉を使わずに、人を傷つけてもしまうんだなと、視線の使い方のマイナス面を今受けとめた。



それは、かつて自分が

源から離れた意識から、生み出してしまった怖れのエネルギー で、


それは、宇宙をぐるりとまわって、



そのカルマは、今度は受けとる立場で
例えばオフィスの経験として帰ってきた。



愛から離れて、無知であれば、私たちは、
こんなエネルギーを出してしまうんだと気づきます。


ああ、とっても嫌な思いだ。
こんな思い嫌だなぁ。
やっぱり私はあたたかいまなざしがいい。



それなら、私は、これから
自分の眼差しを、冷たさで使わずに、
優しく見つめる事を選択しよう。


あたたかく見つめよう。
目で、誰かを抱いてあげて
わかりますよ、大丈夫ですよと
受けとめてあげる私になろう、と。



例えば、両サイドを知るからこそ
新しい選択に出会います。


視線の使い方を、詮索・冷たさから、愛のある応援、理解、のエネルギーによって、

あたたかくまなざしを使う方へと、まなざしの使い方をアセンドさせていきます。



わかるから、わかったから、
まなざしの使い方をいのちが知るのです。


自分のエネルギーを、 美しくしていく事を学び、


かつて愛だったのに、

分離から、こじらせて、愛でなくしてしまったものを、


再び、愛に戻して行く
限りない優しさを知るのです。



そうやって、私たちは愛に帰っていきます。