天の愛はいつも

全体を、永遠を、

見つめている、

大きな包容力だったのです。







このような感じでしたので、

最初は私と聖母の心がはっきりと別れていました。


清々しい程に、まっぷたつに割れる事さえありました。


 

聖母は『お行きなさい』といい、私は(お恥ずかしいですが)


行きたくないという。


天は『こうしてください』という。


私はもっと別な方法がいいという。

 

そんなくりかえしでした。

 

ある時、私のお知り合いの方が、

悲しみにくれ窮地に立たされた事がありました。

 

 

その時、聖母は、



『今は何もいってはなりません。

   今はそっと見守る時です。

  そっとしていてあげなさい。』



と言いました。


けれど、私は彼女の激しい消沈ぶりがかわいそうになっていて、



『何故ですか?あんなに苦しんでいるのに!今こそ、一言救いになるようなアドバイスが必要ではありませんか?』



 

しかし、聖母はキラキラキラ。








『いいえ』と。


 

 

私はちょっぴり不満。

私の心には彼女に渡してあげられるアドバイスが、ありましたから。

 

でも・・。と不満が心に横たわりながら、

それでも実は自分で決めて、自分で行動する事に不安になっていて、

動こうとはしない私を見透かして、

聖母がこういいました。


 

『不満をそのままにしてはなりません。」

 

 

『あなたがこうと感じた事があるなら、

そのあなたの気持ちを大切にする勇気を

お持ちなさい。』

 

 

 

『あなたが、感じるその事を大切にし、

実践する勇気をお持ちなさい。』

 

 

あなたが感じるどんな小さな声にも

立ち止まり、ふりむいて、耳を傾けてあげるのです。


 ちがうと感じるなら、ちがうと感じていいのですよ。

 

ただ必ず、心で思うだけではなく、

あなたが信じたことを繰り返しやってみることです。


そうすれば、

あなたの中の叡知は、必ずあなた自身を導きだして、


真実を必ずあなたに、見せてくれるでしょう。』

 

 

そう、いつも優しく背中を押されるのです。


違うと言ってもいい。

だけど、

ただ文句を言ってるだけではダメ、


違うと思うなら、自分はこう思うと信じる方を必ず行動するのですよと、


励まされるのです。



自分がこうだと感じる事があるなら、繰り返し、それをやってみることですよと、

聖母がいいました。

 

言うだけでは わからない事がある。


でも、


自分の信じたことを行動することによって、エネルギーが放出され、

自分が掴んでいる波動が、どういうものなのかが、結果になって現れます。

 

そうして、私達は愛を学べるのだと、導かれたのです。

 

ですから、天と私の心が、まっぷたつに割れた場合。


私はまずは自分の意見の方を実行してみました。

 

これは絶対正しい、間違ってないと確信をもち、


堂々と自信をもってまずは自分の思い通りに動いてみることにしたのです。

 

絶対、こっちの方が優しいわ。

絶対、こちらの方が喜ばれるわ。

 

そう信じていつも自信満々にやってみるのですが結果、必ず垣間見たものは、


私の意見の正確さではなく、

天の言葉の正確さの方でした。

 

やってみると、動いてみると、


聖母の言葉が活きてきて、見えてくるのです。

 

やってみると、はっきりわかりました。


何故あの時はゴーサインで、

何故この時はストップだったのか

 

何故この方にはイエスで、

何故この方にはストップなのか。


 

一見理不尽にみえ、

整合性がないように見えた聖母の言葉たちは、



確実にひとつのあたたかい真理がすべてにおいて貫かれ、

光輝いてそこにあることが理解されてくるのです。


 

天の答えは気まぐれではなく、

確実にその時出会っている魂を救い上げ、

応急処置ではなく、


真に、それぞれの状態の私たちを

あたたかく愛し大事にする言葉とタイミング だったのです。


目の前のものしか見えていない私に対し、

天の愛はいつも全体を、

さらには永遠をも見つめている、

大きな包容力だったのです。


 

体験すると、まざまざと見えてしまう自分の無知さ、傲慢さ。


 

私の心が選んでいたのは、

愛ではなくて情で、私のやり方では依存が着地点になっていました。


天の言葉には、


今こそ言ってあげなければならない時があり、

同時に今こそ言ってはならない時があることを、私は知ってゆきました。


その微妙なさじ加減が、


ひとつ転ぶたび、


嫌な思いをするたび、


間違えるたび、


苦い涙と共に


しだいに私は、経験を通して理解していったのです。