徒然草 第二百三十五段

 

 主がいる家には、用のない人が思うままに入って来ることはありません。

 

 主のいない所には、道行く人がむやみに入ってきたりします。それどころか、狐やフクロウのような獣も、人の気配がないので、我が物顔で入って棲みついていてしまいます。木霊(木の精)などと言う異様な姿をしたものまで現れます。

 

 また、鏡には色も形もないからこそ、あらゆる物の姿が映るのです。もし、色や形があったら、何も映らないはずなのです。

 

 空間があれば、そこには十分に物を入れることができるのです。

 

 私たちの心に、様々な雑念が、次から次へと浮かんでくるのは、心の中に何もないためかもしれません。心にも主人がいたならば、雑念が入り込むこともないでしょう。

 

 

 

「難しくて私には分かりません。」

 

 

 この段は参考になったかも? 

 

 草むしりをしながら、妙に雑念がわく今日この頃なのです。

 

 過去の失敗を思い出し、「あの時、ああしていればよかった。あの人は、嫌な思いしなかっただろうか。」など、イジイジと考えながら草むしりをしているのです。

 

 

「草むしりしながら、何考えてるのよ。」

 

 

 こんな時に思い出すのは、成功体験ではなく失敗体験の方です。

 

 ラジオで、ある人が言っていました。「イジイジと考えるのは加齢のせいだ。若い時は、前を向き後ろを振り返る余裕もなかったからだ。」

 

 確かに、そうなのかもしれません。心の中に主人がいたのでしょう。(その主人がどこかに行き、イジイジしたことはありましたが。)

 

 

「その時、そんなこと考えてもなかったでしょ。」

 

 

 今は、色々な物から解き放たれたので、心の中に主人がいなくなったので、雑念が入り込んできたのでしょう。

 

 

 

「私は、いつも無の状態よ。」

  - ヒメの一言 ー