徒然草 第百六十段
門に額を懸けることを「打つ」と言うのは良くない言い回し方なのでしょうか。
勘解由小路二品禅門(かでのこうじ・にほんの・ぜんもん)さんは「額を懸ける」と仰っていた。
「見物の桟敷打つ(見物席を設置する)」も良くないのでしょうか。「平張打つ(天幕を張る)」は普通に言っているのですが。「桟敷を構える」と言った方が良いのかもしれません。
「護摩を焚く」という表現もよくありません。「護摩を修する」とか「護摩する」などと言うのが良いのです。
「行法(密教の修行すること)も『法』の字を濁らず『ぎょうほう』というのは良くなく、濁って『ぎょうぼう』というのが正しいのです。」と、清閑寺僧正が仰いました。
普段から使う言葉には、このような良くない言い回しをしていることが多いのです。
「『勘解由小路二品禅門さん』? 長い名前ね。」
言葉というものは、時代によって変わっていくものなのです。兼好さん、今の言葉を見たり聞いたりすると、驚くかもしれません。
大正時代の関東大震災の説明に、「素晴らしい被害」という表現が、新聞で使われていました。
「ひどい新聞ね!」
今の人がこの新聞を読んだとしたら、驚くことでしょう。しかし、昔は「素晴らしい」は「ひどい」「とんでもない」という意味で使われていました。
「びっくりしたわ。」
他にもあります。「微妙(ビミョー)」は今の若者言葉です。しかし、昔は「細かい所に美しさ・問題点。重要な意味があって、単純な論評を許さない様子。」だということです。
ら抜き言葉などは平気で使われ、テレビではテロップで正しい言葉に直され、出ています。ひょっとすると、ら抜き言葉も当たり前のように使われる時代になるのでしょうか。
これは憂うことなのでしょうか、それとも……。
「憂うことなんでしょうね。」
勘解由小路二品禅門さんですが、勘解由小路家で二品(従二位)の禅門(俗人のまま仏門に入った男性)という事らしいです。藤原経尹という平安時代の公卿・歌人です。
「言葉は大切にしていきたいわね。」
- ヒメの一言 -