徒然草 第百五十七段

 

 筆を持てば何かをかこうとするし。楽器を取れば音を出そうとします。盃を持てば酒を飲もうとし、サイコロに触れると、博打をしたくなります。

 

 物事に触れると心は動き出すのです。だから、良くない遊びに手を出してはいけないのです。

 

 経典の一句に目をやれば、何となくではありますが、前後の文も目に入ってきます。そのおかげで、長年思い違いしていたことを改めることができます。

 

 もし、この経典を広げて読むことがなければ、この思い違いを知ることもなかったでしょう。これこそが、「触れること」のメリットと言えるのです。

 

 気は乗らなくても、仏前に座り数珠を持ち、経文を手に取ると、怠けているといえ善行は自然と行うことができるのです。

 

 乱れた心でも、いざ縄床(座禅を組む椅子)に座ると、気付かないうちに心が安定し動揺しない心境に達するのです。

 

 現象と真理は別のものではなく一つのものです。言動や行為が正しいものであれば、心の悟りも開けるものです。だから形だけの勤行に対しても、信心が足りないといってはいけません。むしろ、敬い尊ぶべきなのです。

 

 

 

 大学に入学した時、父が「麻雀とタバコは、しない方がいいな。」と言ったのですが、興味本位でタバコに手を出してしまったら、そのまま吸うようになっていました。

 

 

「お父さんは、誘惑に弱いタイプなのね。」

 

 

 当時は、職場の自分の机の上にも灰皿がありました。「I am チェーンスモーカー!」などと、バカな事を言いよく吸っていました。

 

 

「若い頃、バカな事ばかりしてたんじゃない?」

 

 

 麻雀も同じで、牌を触ってしまい、沼にハマっていきました。麻雀は大学卒業と同時に止めました。(ただ、周りに麻雀をする人がほとんどいなかったためです。)

 

 タバコは、大学の時セブンスターが100円で、1カートン1000円だったので、金銭的にもあまり気にならなかったのです。(今の値段だったら吸わなかったでしょうね。)

 

 

「それだけ安ければ、手も出るわね。」

 

 

 しかし、子どもができ、タバコを止めることができました。何度「禁煙!」と言ったでしょうか、子どもは偉大です。おかげでタバコを吸う期間が短くて済みました。

 

 

「確かに。 お父さんのたばこを吸うところ見たことないものね。」

 

 

 良くないことに手を出すという事は怖いものです。

 

 

 後半部においても、兼好さんの言っていることには納得します。

 

 葬式や法事にしてもそうです。多く集まった弔問の客が、全て故人に対して同じような気持ちであるとは限りません。人に寄っては、「もうじき終わるかな。」という不届き者がいるかもしれませんが、信心が足りないといってはいけないのでしょう。

 

 

「『もうじき終わるかな。』と思ったの、お父さんでしょ。」

 

 

 数珠を持ち、お経を聞くだけでも、故人を偲べるのかもしれません。

 

 

 

「これ自分に言い聞かせているのじゃないですか。」

  - モモの一言 -