身の丈を知る? 徒然草 第百三十四段
高倉上皇の御陵にある法華堂で法華経三昧の僧侶の律師が、ある時鏡を手に取って自分の顔を見ました。
その容貌の醜さに、その後鏡を手に取ることもなく、人と交際することもありませんでした。
ただただ法華堂のお勤めにだけ出て、後は引きこもっていたそうです。めったにできることではないと感心してしまいました。
「そんな人生、楽しい?」
偉そうに見える人も、人のことばかり批評して、自分のことはわかっていないんです。自分を知らないのに他人の事が分かるはずもないのです。
自分を知る人を、物の道理をわきまえた人だということです。
自分の非を知らない人は、他人から非難されていることなどわかることはありません。
自分自身が拙いのだと悟ったならば、すぐに一線から退かないのでしょうか。
老いたと悟ったならば、閑静な土地に住んで体をいたわらないのでしょうか。
勤行がおろそかになったと悟ったならば、なぜそうなっているのか考えないでしょうか。
叶わないことを望み、そして嘆き、来ないだろうことを待ち、人を怖がり、人に媚びるのは他人のせいじゃないのです。欲深い自分の心に引っ張られ自らの身を辱めているのです。
「私は俗的に生きたいな。」
兼好さん「身の丈を知りなさい。」とでも言いたかったのでしょうか。
それにしても、法華経三昧の僧侶の律師は、ここまで言われると複雑な心境でしょうね。
「顔の良し悪しは本人の責任じゃないでしょ。」
ここからは私の意見です。
容貌が醜いからと言って、引きこもらなければならないのでしょうか。容貌の良し悪しなんて言うのものは、与えられたものであって望んでそのようになったわけではないのです。そこを突かれると、どうしようもありません。
自分に責任のないところのために鏡を取らず、人と交際せず、引きこもるだけの人生は私は嫌です。
老いたと悟った時、閑静な土地に住み体をいたわるより、人に迷惑が掛からない範囲でやりたいことをやる。
私は物の道理をわきまえない人間なのです。
「確かに、お父さんは道理をわきまえないところがあるけどね。(笑)」
兼好さんそれではダメなのでしょうか。
「ダメじゃないでしょ。」
- モモの一言 -