徒然草 第四十段
因幡国に、何の入道とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言わたりけれども、この娘、たゞ、粟のみ食ひて、更に米の類を食はざりれば、「かゝる異様の者、人に見ゆるべきにあらず」とて、親許さざりけり。
因幡国のなんとかという僧の娘が美人であるという話を聞いて、多くの人が言い寄ったけれども、この娘がただただ粟ばかり食べて、全く米などを食べなかったので、「こんな変な娘は人様に見せられない」と言って、親が許さなかった。
この第40段ですが、単なる珍談に過ぎず、教訓はないという解釈が大半という事です。
ところが、小林秀雄先生が「これは珍談ではない。これこそ徒然草、これが吉田兼好だ」と高く評価したと言います。
小林秀雄先生の言いたいことは私には少し難しそうなので、私なりに考えてみました。「これは珍談ではない。」という事には大賛成です。
「今日のブログは凄そうですね。小林秀雄先生まで出てきましたか。」
この段に出てくる娘さんは美人で、粟だけを食べる変な娘さんだから珍談で治まっているだけだと思います。
この娘さんが美人でなく、また、粟ばかり食べるのではなく、障害を持っていたら、昔はどうだったのでしょうか。
「どうなるんでしょうか。」
ここでは内容は具体的に書きませんが、私が幼い頃に、大人の会話をよく耳にする機会がありました。その会話の中には、差別的発言もあったことは後に知りました。
その時は、大人が言う事は当たり前だと思っていたことも、色々なことを学ぶことでその中にあるおかしさに気づき始めたのです。
「気づくだけで、まだマシな方ね。」
今は世間一般の意識が変わりはじめ、教育も個々の個性を尊重するものに変わってきました。そのためか、昔に比べ生きよい世になったとは思います。しかし、そのような問題は深く根を張るように残っているように思います。
吉田兼好さんは今ある問題を見越してこの段を書いたとしたら、すごい人だと思います。
「兼好さん、そんなことを考えたかどうかは知らないけれど、問題提起にはなっているようね。」