第九段
されば、女の髪すぢを縒れる綱には、大象もよく繋がれ、女のはける足駄にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言い伝え侍る。自ら戒めて、恐るべく、慎むべきは、この惑いなり。
(そうであれば、巨大な像でも女の髪で編んだ綱につながれるといい、女の履いた下駄の木で作った笛の音には、必ず発情した秋の鹿が集まってくると伝えられている。男が自ら戒め恐れて控えるべきものは、この愛欲の迷いである。)
「これ何が言いたいの? さっぱりわかんない。」
吉田兼好さん、「人を恋するということは、自分の意志で作り出したものじゃないから、気持ちを抑えることはできない。それは、老いも若きも愚者も賢者も同じことだ。」と言っているのですが、そうなのかなと思います。しかし、そうはありたいと思うのは確かです。
吉田兼好さんは歳をとっても純な心を持っていたんでしょう。というか、青年時代のワクワクするような恋に憧れていたのかもしれません。
そうなると、案外兼好さんは恋多き男性だったのかもしれません。(文を読んで感じたことです。)
「兼好さんはどうでもいいの。女の履いた下駄で作った笛の件はどうなったの。」
それはともかく、女性に対しての迷う心が、巨大な像が女の髪で編んだ綱につなぎとめられるとか、女の履いた下駄の木で作った笛の音に発情した鹿が集まってくるというたとえは理解しがたものです。
「結局は分からなかったのね。」
徒然草とは男目線で描いた随筆なのでしょうか、この先を読んでいくとわかるような気がします。
「そうね。今の時代、女の子目線も必要よ。」
このパターンのブログを書くことに少しだけ後悔が生じ始めました。なんせ、一段を読むのに時間がかかりすぎるという事です。
「ブログの方向性が少し変わったんじゃない。私たち中心じゃなかったの?」
- モモの一言 -