ずいぶん長い間、ブログを書いていなかった。いわゆる「SNS疲れ」というものかもしれない。羽生ごとについても、溢れんばかりの情報に追いついていけず、ブログやツイッターも追い切れない状態が続いていた。私としては、初見のテレビ番組は見逃さないようにすること、グッズ類や雑誌はマンションの収納スペースが限界に近いため、厳選して購入し、生観戦や生配信のチケットを買う方に重きを置くことの二点だけを心掛けた。その結果、横浜アリーナでのSOI二日目とFaOI幕張の初日のチケットをゲットすることができた。4月7日(金)昼の「SOI」は、すでに見てきたが、感想を書く時間がないままに今日に至っている。

 

SOIはじめアイスショーについて思うこと

 SOIの席は、ショートサイドのアリーナ席だったので、「阿修羅ちゃん」の最後、ショートサイドめがけて疾走してきて、膝をつくフィニッシュが見られただけで有頂天だった。その時、いつものようにクールで悪そうな顔をするかなと思ったら、可愛い笑顔がはじけたので、またまた興奮。私も含めて皆さん、事前に「絶叫訓練」があったので、すでに恥も外聞もない状態で、意味不明の大声を出していた。

 羽生さんは「ゲスト」の一員として、少し遠慮気味に振る舞っている感じがした。蓋を開ければ、羽生結弦中心のアイスショーでありながら、メンバーをぐいぐい引っ張るという2021年時のときのような姿は見られなかった。私たち羽生ファンにとっては、彼をかなり良い席で見られたという点で大満足だったが、全体としては、結局誰が座長なのかはっきりしないままのショーであった。人気と集客力を考えると、思い切って、2021年のときのように、実質的に羽生さんに任せきった方が、羽生さんもやりやすかったのではないかと思った。

 逆に、今回のFaOIの出演者の顔ぶれをみると、女子シングルスケーターは(ロシア勢がいないせいもあるが)全員日本人、男子シングルスケーターも、ハビ、プル様、ジェフリーバトルなどがインしておらず、代わりに、無良さん、草太君、友野君など、若手の日本人スケーターが入っており、FaOI も、次第に羽生さんが名実ともに座長、メンバーも日本人スケーターの比率が高いものになっていく方にかじを切ったのかなという気がした。

 いずれにしても、日本開催のアイスショーは、羽生さん中心に回っていかざるを得ないだろう。

 

もう一つの「Gift」-仮面・ペルソナ・マスカレード

 「Gift」を私は、ついに生でみることなく終わってしまった。3回ほど抽選申し込みをしたがすべて外れたので、その後もまだ様々な方法でチケットをとるチャンスがわずかながらあったにも関わらず、3回目に落選した段階で諦めてしまったのだ。その段階でディズニープラスにも入っていなかったので、私が「Gift」を見たのは、ライブビューイング1回だけで、その時に印象に残ったことだけをこのブログに感想として残した。

 

当時、彼の紡ぐ物語から私が読み取ったのは、「できないことをできるようにしよう」と消耗し苦悩しながら努力してきた自分(羽生さん自身)が、「もうできない、疲れた、こんな僕のこと誰が分かる?一生誰も分からない」と絶望的なまでの孤独に陥っていくこと、それでも結局、「でも自分が、一人じゃないことも見えてきた」と前を向くに至るというストーリーだった。私は、彼の「孤独」が、血のにじむような努力を重ね、どんなに上手くなっても採点に反映されないという消耗感や苦悩といったものが、結局誰にも理解されないのだという意味での「孤独」であると理解していた。

 しかし、先日読んだ『アエラ』(3月20日増大号)の野口美恵さんの記事に、「Gift」後半の、羽生さんの内面の葛藤について描いた部分で、羽生さんが意図したメッセージとはどんなことかと問われ、次のように答えている部分を読んだとき、衝撃を受けた。

 

僕の中では「ペルソナ」、皆さんが社会にいる時に使っている自分の顔や仮面、そういったイメージで考えてくださると。(いいのではないかと思う)。こうやってしゃべっている時も、きっと自分が見せたい羽生結弦を出していると思いますし、話しながらも心の中でくすぶっている羽生結弦もいる。それは多分僕だけじゃなくて、皆さんも。(同じだと思う)。

 だから・・(略)・・本質的な皆さん」と「ペルソナの皆さん」を認めてあげるような時間になったらいいなと思います。

 

「Gift」は、僕の半生を描いた物語でありつつ、でも皆さんにとっても、こういう経験があるんじゃないかなって綴った物語でもあり、

少しでも、皆さんの「『独り』(ひとり)という心に贈り物を」、「独りになった時に帰れる場所を」と思って作りました。

 

 ああ、彼の葛藤とは、羽生結弦という「仮面」を被った自分と、より本質的な自分、真の自分との葛藤であり、彼の孤独とは、仮面をつけて生き続けてきた、そしてこれからも「仮面」を付けて生き続けなければならないという意味での孤独なのだ、と胸に落ちて分かったような気がした。

 彼は、時に暴力的なまでの激しさで、その仮面を剥ぎ取ろうとした。2019年のFaOIで、としさんとコラボした「マスカレード」も、同じテーマだったが、ここでも、仮面を剥ぎ取り、氷の上に叩きつける演技で終わっていた。仮面をつけつつ、剥ぎ取りたい自分もいるのだ。「羽生結弦」を生きながら、「羽生結弦」を捨てたい自分もいるのだ。それを思うと、彼の孤独の深さが想像され、哀切な感情に囚われた。哀しくなった。

 けれど、彼は孤独を嘆き、誰かに救いを求めるのではなく、逆に、皆さんも同じでしょう、社会的になにがしかの「仮面」をつけて生きており、それゆえに孤独を感じる時もあるでしょう、そんな時に自分のプログラムたちが皆さんの心に寄り添うことができますように、と私たちを励まそうとしてくれるのだ。

 私たちが、羽生さんを愛し続けるのは、こうした内省的な思慮深さと包容力や優しさをもっているからだ。そして、こういう形で、人人とつながろうとするところに、表現者としての羽生さんの抜きんでた本質があるし、多くの人々を惹きつけてはなさない魅力も力量もあるのだと思う。

 

【追記】

羽生さんは、「いえ、思慮深さも包容力も優しさもすべて、本質的な自分ではなく仮面をかぶった羽生結弦にすぎません」と言うかもしれない。

 でも、羽生さんが言うところの「羽生結弦という仮面」が、真の羽生さんと大きくかけ離れているとは考えにくい。誰も「仮面」を付けて生きているということはできる。が、「仮面」もまた、真の自分の身の丈にあったものなのだと思う。