少年の私

その頃、私の家に自転車はなかった。初めて自転車に乗れたのは小学3年の頃だった。

 

日曜日になると近所の幼い子が補助輪を外した幼児用自転車でお父さんの後を追う姿をよく見かけた。

私より歳下で補助輪なしで走っていることに驚き…いや羨ましかった。

 

昔は近所の子供達の溜まり場の様な広場が幾つかあり、ミニ野球、なわとび、メンコ、ビー玉など

そこには幼児から少年、少女まで歳に隔て無く遊んでいる夕方前のいつもの風景。

周りに大人の気配はないが喧嘩や危険な事があると何処からとも無く知らない大人が飛んできて時に助けられそして叱られる。

大人達は遠目で見守っていてくれていたんだな。

子供達は皆遊びに夢中

自転車やバット、グローブなど玩具が無造作に投げ置かれ、「ちょっとこれ借りるねー!」と大きな声を出すとコダマのように

「いいよー!」と返事がする。

そこにあの時の補助輪なしの幼児用自転車が転がっていた。

思わず私は「この自転車乗っていい?」と大きな声を出すと幼い子が「いいよー」とニコニコしていた。

 

ほとんどの同級生は少年用の自転車を所有していたが実は私は小3まで車輪のついた乗り物は三輪車以外乗った事がなかった。

 

周りの子供達は誰かが自転車乗ること自体何も珍しくもなくこっちに対する意識もない。

誰にも見られていない事が子供ながらにリラックス出来たのだと思う。

ドキドキも緊張感もなく見よう見まねでペダルに足をかけ力を加えた。

不思議な事に何の違和感もなく私を乗せた自転車は当たり前のように走りだした。

野球やなわとびの土煙と、ほのかな金木犀の香りが私を包んだ。まるで夢の中の様に

 

初めての二輪自転車をあっさりクリアした。

ブレーキの存在と機能が全く理解出来ていないので止まる時は少し焦りながらズック(当時は運動靴をズックと)を引き摺りながら速度を落とし止まった。

 

数日後、学校から帰宅すると新しい自転車の傍らで親父がニヤケて待っていた。

「今日からおまえの自転車だ」

親父の一言で真っ白になりその後の会話は記憶にない。

 

毎年 何もないのは当たり前

全く期待していなかった

9月は私の誕生日

 

なぜ自転車に乗れる事を親父が知ってたんだ?

なぜ自転車欲しい事知っていたんだろう…

 

真新しい自分の自転車。

幼児用自転車より3倍位でかい。

ブレーキもまだ理解してないが変速機までついていた。当然理解していない。

自宅前は坂道だったので自転車を降りて引きながら坂を降った。

坂を降り振り返えると親父のような顔が建物の影に隠れるのが分かった。

緊張するから見ないでよ。

自転車に乗らず全速力で自転車を引っ張り親父の気配から逃れた。

そして新しい自転車に乗った。

やっと足が届く自分には少し大きな自転車。

いつもの景色が低く流れ出す。

 

変速機の使い方はわからないが多分1番軽いギアで苦もなく走れた。

走りながらブレーキで減速する事を覚えた。

楽しい。

いつもはあまり行かない隣の町内もそしてその隣の町内も行った。

調子に乗っていた。

まだブレーキの加減が分からず砂の上で急ブレーキをかけて盛大に転んだ。

ハンドルが曲がりフレームにいくつか擦り傷がついた。

膝と肘から血が出ていたが全く痛くない気にならない。

親父に怒られるのだけが怖かった。

曲がったままのハンドルで何とか帰宅し傷ついたフレームが見えない様に自転車を玄関に止めた。

親父には転んだ事は内緒だ。

手足の擦り傷も血を洗い流し何事も無かったかのようにした。

 

親1人子1人、寝る時は隣に布団を敷いて寝る。

布団の中で転んだ事を思い出しなかなか寝付けない。

新しい自分の自転車が…ああ…

傷ついた手も足も急に痛くなってくる。

目を瞑りながらゴロゴロ。寝れない。

親父にバレない様に押し殺す。

そして涙がポロポロ出てきた。

 

次の日、自転車のハンドルは直っていた。

 

 

今私は石をファセッティングする為の真新しい機材に囲まれ少年期の記憶を辿った。

 

何事も初見で調子に乗っていたら転ぶ。

 

目標のローズカットは取り敢えず封印して先ずはファセッター機能の予習をして慣らし運転だ。

山梨のメーカーから頂いたマニュアルを何度も読み直した。

マニュアルにはいきなりブリリアントカットから書いある。

マジか…難易度高すぎるだろ…

クソッタレ! 

落ち着け落ち着け  そして慎重にひと通りやってみるか。

 

初めて見るとパニックになる

まともに勉学に励んだ事もない私にとってこのマニュアルはまさに魑魅魍魎

 

このまま止まっていても景色は変わらない。

違う景色が見たいから そして一歩進む。

適当な水晶で慎重にファセッティングを始める。

漕ぎ出しが重いのは最初の一歩。

一度進めば先へ先へとギアが上がる。

 

初日は18時間くらいやり続けた。

結果全て失敗。

凸凹、傷だらけ、艶が乗らない

何故だ何故だ…

 

勉強なら直ぐに投げ出すが不思議と翌日も早朝からファセッティングを始める。

 

経験者に手取り足取り教えてもらえればコツはつかみやすいだろうが・・・

独学でなんとか10日位やり続けそれらしい形になった

アメジストと水晶のブリリアントカット

 

画像は良く見えるが傷やカット落ちやカット間違えが多い。

人に見せられる様な出来ではないが初めて最後までやりとげたファセットカットは金木犀の香る9月の事だった。

 

次回に続く