みき歴史資料館

※三木城二の丸跡に建つ「みき歴史資料館」・・・旧市立図書館だったようです真顔

 

 

 

 

三木城1️⃣  

 

 

僕は、兵庫県民ですが、三木城には、一度しか行っていませんでした。

 

三木城は、元和3年(1617)の幕府による「一国一城令」で廃城になっています。

 

江戸期までは、城址はある程度残っていたようですが、近年の宅地開発により、基本的には、城郭遺構は殆ど残っていません。

 

三木城は、平山城に属します。

 

三木城本丸跡地は、「上の丸公園」になっており、別所長治公像、辞世の句碑、天守台などがあります。

 

二の丸跡地には、「みき歴史資料館」があり、三木城関連の資料が展示されています。

 

 

三木城二の丸跡石碑二の丸跡案内板

※三木城二の丸跡石碑と案内板・・・現在、二の丸に建っている図書館、美術館の建設工事の際、事前調査が行われ、大量の遺物とともに備前焼の大甕が16個、埋設した跡とともに陶器片が大量に発見され、「別所時代の遺構」と確認されましたニヤニヤ

 

周辺からも瓦片や礎石、柱穴が大量に発見され、別所時代の三木城には「大規模な瓦ぶきの建物」が存在していたことが証明されましたウインク

 

三木城跡は、江戸時代の絵図が残っており、「多分この辺りが本丸、二の丸あたりだろう」と「推定地」扱いでしたが、上記の「発見」によって本丸部分にある保育園、金物資料館建設時にも同様の調査が行われ、大量の陶器片や瓦片が発見されましたポーン

 

現在の推定本丸、二の丸部分以外は、周辺の宅地開発によって、削平され住宅地と化し、未だ全貌は明らかになっていませんゲロー

 

しかし、二の丸で発見された大甕の埋設跡から「炭化した食料(玄米、粟など)が発見されたことにより、「食糧庫」があったと証明され、「甕の底には食料が殆どなかった」ことが確認されていますチーン

 

三木城跡は、三木合戦後、「土盛りして新たな城に改修」しています(それも、関ヶ原後に廃城となりました)真顔


遺構は、戦国期の土層から発見されており、文献上でしか確認できなかった「三木の干し殺し」が現実にあったことを、この「遺構」は物語っていると言えます滝汗


この「遺構発見」によって三木城跡は「国史跡」になったと言えるでしょう真顔

 

 

 

  三木城(上の丸公園)    

 

三木城(上の丸公園)は、神戸電鉄粟生線三木上の丸駅から徒歩約5分のところにあります。

 

住宅街の坂を登りきった先にありますので、徒歩だと若干キツイかもしれません。

 

三木城には、みき歴史資料館の駐車場があります。(無料)🚗

 

三木城と言えば、織田軍(羽柴秀吉)の播磨攻略戦のひとつで最も有名な「三木合戦」=「三木の干し殺し」で有名な舞台となりました。

 

 

 

では、三木城が歩んだ歴史をご紹介させて頂きます🙇

 

 

三木城案内板

※三木城案内板・・・現在の三木城跡は本丸と二の丸跡が「ほぼ平坦かつ、ほぼ正方形」になっていますが、当時の二の丸は本丸を囲むように、東西に広がっており、南に三の丸を構え、外郭の南端に巨大寺院「雲竜寺」があったと考えれられていますニヤニヤ

 

本丸跡も、三木城落城後、羽柴秀吉によって、大幅な改修が行われた記録がありますが、秀吉によって作られた「伝・天守台」が残るのみですチーン

 

本丸の北側にも大・小規模の曲輪を階段状に設けていたようですが、住宅地と化し往時の状況は、想像できませんチーン

 

 

  ①三木城の歴史〜室町期の別所氏

 

 

三木城がある地は、有馬温泉〜京都へ繋がる「湯山街道」の要衝地にあります。

 

 

三木城は、東播磨一円を支配し、播磨の守護大名赤松氏の守護代(家臣)から戦国大名化した「別所氏」の本拠地として、明応元年(1492)、別所則治により築城されました。

 

 

別所則治は、幾度も改修を重ね、三木城は、「難攻不落の巨大要塞」と化します。

 

 

別所則治は、守護大名赤松氏家臣団の中で備前守護代浦上氏と互角の発言力を持つようになり、やがて両家は戦国大名化していきます。

 

 

則治の孫、就治の時代になると守護代から備前にて戦国大名化し、西播磨に侵攻してきた浦上村宗と争うようになります。

 

享禄4年(1531)に起こった「大物崩れ」でライバル浦上村宗が討ち死に、別所就治は東播磨一円を完全に勢力圏に収め、戦国大名化しました。

 

その後も別所氏は、尼子氏や三好氏の侵攻を受け、一旦服属しますが、影響力が弱まると、勢力拡大を行っています。

 

 

 

  ②三木城の歴史〜戦国時代の別所氏

 

 

 

就治の子、別所安治の時代になると、勢力の弱まった三好氏から完全に独立、別所氏は東播磨の戦国大名となります。

 

 

安治から息子長治に代替わりする頃には、北播磨も勢力圏にし、別所氏は勢力を伸長していきます。

 

 

安治、長治の時代に、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が登場、別所氏は信長に従います。

 

その後、将軍義昭は信長によって追放されますが、別所長治は引き続き信長に従っていました。

 

 

天正6年(1578)、羽柴秀吉に従って中国毛利攻め先鋒を任されていた長治でしたが、突如、反旗を翻し、三木城に立てこもります。

 

 

別所長治の「反乱」は、前々回投稿の荒木村重の「謀反」と同じく「謎」の部分が多いですが、三木城近くにある別所長治墓所にも行きましたので、墓所の紹介の際に、長治の生涯に併せて紹介させて頂きます。

 

 

 

 

 

  ③三木城の歴史〜三木合戦Ⅰ

 

 

 

羽柴秀吉の戦い方は、同じ「天下の三英傑」信長や家康と違います。

 

 

信長や家康は、「城攻め」はどちらかというと得意でなく、「野戦=合戦」のほうが得意だったと思われます。

 

 

逆に秀吉は、「城攻め」が得意だったと思われ(軍師の竹中や黒田の得意な策だったこともあるでしょうが…)、特に難攻不落の城に対しては、まず、近隣防衛線上にある支城の城主をカネのチカラで、調略して寝返らせるか、降伏させ、ジリジリと城の周りを取り囲み、心理的な圧迫を与え、相手の戦意を喪失させる「戦法」を得意としています。

 

 

いわゆる「心理戦」を秀吉は得意としているのです。

 

 

また、秀吉は、建築土木の才能に秀で(これも、竹中、黒田が軍師となり、一層秀吉の才能が開花したとも言えます)、攻める城の周りを取り囲むようにしっかりとした曲輪を伴った本格的な「付城=砦」を造り、「完全包囲」を整えます。

 

 

三木城周辺に、秀吉が造った砦群跡は、現在でも多く残っており、国指定史跡となっています(時間がなく、今回は行っていません)。

 

 

心理戦=敵兵士の戦意喪失の最たるもの=秀吉の最も得意とする戦法とは、何か?

 

 

そのヒントは、信長の「長島一向一揆攻め」に行き着きます。

 

以降の中国毛利攻めにも登場しますが、秀吉の戦法は、

 

①まず城下町、村々を放火→

 

②逃げる町民、農民たちの避難路をわざとあるいは強制的に、城に向かわせる→

 

③城は、逃げてきた領内の町民、農民を、受け容れざるを得ず、城内は非戦闘員たちで溢れ、必然的に収容人数がオーバー→

 

④籠城の為に蓄えていた食糧(兵糧)が、短期間で無くなる→

 

⑤食糧(兵糧)がなくなり、城内は飢餓状態、兵士のみならず、重臣も寝返り→無条件降伏→落城→

 

⑥秀吉は、自らの兵士を失わず、城を奪える

 

 

信長は、「長島一向一揆攻め」のときに、上記のような方法で信長らしいと言えば、らしいですが、「極めて残虐な方法」で一向一揆門徒を「包囲殲滅」しています。

 

 

秀吉も長島一向一揆攻めに加わり、信長のやり方を見ていましたので、「これや!このやり方や!」と思ったのでしょう。

 

 

「三木合戦」は、籠城戦、城攻めの印象が強いですが、奇襲戦のような野戦も行われています。

 

 

三木合戦は、約半年続きましたが、とても凄惨ないくさだったことが、多くの書物に残されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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