明石城石碑

※国指定史跡明石城石碑真顔

 

 

 

 

明石城1️⃣  100名城No.58

 

 

僕は、兵庫県民ですので明石城には、何度か行っています。

 

明石城は、平山城に属します。

 

明石城は、JR明石駅正面から東西に2基現存する三重櫓と高石垣がよく見えます。

 

明石城に現存する2基の三重櫓(巽櫓、坤櫓)は、国内に12基のみある三重櫓(姫路城小天守3基、松本城小天守1基を入れると16基)のうちの2基であり、現存12天守とともに、「非常に重要な城郭建築物」であると言えます。

 

 

明石城太鼓門

 

明石城太鼓門

※明石城太鼓門橋、太鼓門跡、太鼓門桝形跡・・・明治の古写真にこの構図とほぼ同じものがあります真顔

 

中央にはかすかに「巽櫓」の屋根が見えます真顔

 

太鼓門橋は、現在、「土橋」になっていますが、かつては「木橋」でしたニヤニヤ

 

手前には巨大な「定の門」と呼ばれる高麗門、巨大な櫓門「能の門」があり、西国街道上の「要衝」明石城の「玄関口」でしたゲロー

 

 

 

  明石城(明石公園)    日本100名城 No.58

 

明石城(明石公園)は、JR西日本山陽本線明石駅の北側にあります。

 

駅から徒歩数分(目の前)のところにあり、登城にとても便利な立地となっています。

 

明石城には、明石公園南、北駐車場があります。(有料)🚗

 

明石城入城料は明石公園として、無料で開放されています。

 

今回、記事を投稿させて頂くにあたり、明石城に計3回行きました。

 

昨年10月に奥さんの用事で、三の丸と本丸のみ、今年正月に城の東方にある月照寺(明石城移築城門あり)と人丸神社、今年5月に織田家長屋門、東の丸、二の丸に行きました。

 

では、明石城が歩んだ歴史をご紹介させて頂きます🙇

 

 

明石城三の丸あと

※明石城三の丸跡・・・かつて三の丸跡には広大な御殿が立ち並び、山上には巽、坤櫓を含む4棟の巨大な三重櫓が立ち並び、とても10万石の大名の居城とは思えないほどの威容を誇っていましたポーン

 

当日は、兵庫県のフラワーフェスティバル(花の鉢植えの展覧会・・・僕はよくわかりません)なる催しが大々的に開かれており、多くの人でにぎわっていましたちゅー

 

奥さんも出品したようで、この日はそのために「明石城へ来た」ようなものでしたデレデレ

 

奥さんは関係者らしき人物と談笑され、花の写真を撮っておられましたので、「本丸まで行ってていいか?」と言ったら、「行ってき!!!1時間くらいしたら帰ってくるんやで!!!」と言われましたので、喜んで本丸目掛け、登城しましたウインク

 

三の丸の横に「100名城設置」コーナーが建物の中にありますウインク

 

 

  ①明石城の歴史〜古代〜中世

 

 

明石城のある人丸山は、古代から中世の山陽道沿いに位置し、北は但馬、丹波、南は淡路、四国のルートに分かれる「分岐点」で、古代からの「交通の要衝」でした。

 

 

明石の地は、古代から風光明媚な地で「三十六歌仙」で有名な飛鳥時代の歌人「柿本人麻呂」は、この地をよく訪れていたようです。

 

 

明石の地は、柿本人麻呂ゆかりの地で、明石城東側に柿本人麻呂を祭神にした「柿本神社(通称人丸神社)」、並びに柿本人麻呂の墓と伝わる「人丸塚」が明石城本丸内に現在も残っています。

 

 

室町以前は、あまり詳しくないのですが、柿本人麻呂の作と伝わる歌の一つで、明石を題材にした歌が残っています。

 

 

「ほのぼのと あかしの浦の 朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ」

 

(ほのぼのと夜が明けるのを、明石の浦に立ち上る朝霧に包まれて、島に隠れたり、現れたりする船を見るのは、実に良いものです)(※勝手に訳してます)

 

のちに、今話題(あまり興味がないので見てません😓)の源氏物語にも、人麻呂の歌が引用されており、明石の地は、当時から有名だったようです。

 

 

中世期の明石は、赤松氏の一族である「明石氏」が支配していましたが、戦国時代になると、三木城を本拠地にしている別所氏(就治)に支配されました。

 

 

当時における明石市の中心部は、古代からの瀬戸内海交易の港湾都市「魚住泊」でした。

 

 

港湾都市「魚住泊」を押さえた別所氏は、明石から三木の東播磨一帯を治める戦国大名に成長します。

 

 

 

坤櫓と石垣

※明石城三の丸から見た坤櫓と石垣真顔

 

巽櫓と石垣

※明石城三の丸から見た明石城巽櫓・・・すごい高石垣で約20mありますポーン

 

城郭建築技術が、最高峰に達した城郭遺構といっても過言ではありませんポーン

 

石垣が、江戸期の城郭によくみられる「切り石積(切り込みハギ)」でなく、織豊期城郭の「野面積み、布積」、「打ち込みハギ」が多用されているのは、明石城の石垣、建物ほとんどすべて、周辺の廃城になった城から「石垣や建物すべて」移築したものの「証跡」と言えますポーン

 

  ②明石城の歴史〜安土桃山〜江戸時代の築城

 

 

 

別所氏が羽柴秀吉により、滅亡した後、明石川の河口に「船上城」が、高山右近によって築かれました。

 

 

関ヶ原後は、明石は、姫路藩主池田輝政の領地となりました。

 

 

慶長20年(1615)の「大阪の陣」で豊臣家が滅亡、翌年元和2年(1616)、池田家は、岡山と鳥取に移封、明石には、信濃松本から移封された小笠原忠真が「船上城」に入り、「明石藩」を立藩することになります。

 

同年の幕府の「一国一城令」発布により、戦国から織豊期にかけて、播磨に築かれた多くの城は、廃城となりました。

 

 

幕府により、西国街道の要衝地である明石に城を築くよう、2代将軍秀忠の命が下ります。

 

 

小笠原忠真は、義父である姫路藩主本多忠政と相談し、「人丸山」を城地に決定、「明石城」築城が開始されました。

 

 

築城費用は、銀一千貫(約31億円)と言われ、幕府主導の一大事業でした。

 

 

 

桃山期~関ヶ原後までの「城郭建設ラッシュ」により、多くの城が築かれましたが、「一国一城令」により、多くの城が廃城となったため、「明石城築城」には、近隣の廃城となった船上城、三木城、枝吉城、高砂城などを取り壊して、それらの建物、石垣をことごとく「転用」し、築城されています。 

 

 

 

明石城の城域は、姫路城に匹敵するほどの広大さです。

 

 

小笠原忠真は、「10万石の大名」でそのような巨大な城郭を1から造る財力はありません。

 

 

明石城は、「幕府の莫大な資金援助により建てられた城」なのです。

 

 

三の丸からの階段

※明石城三の丸から見た本丸、二の丸への階段真顔

階段

※明石城本丸、二の丸への階段・・・巽櫓が見えるのでもう着くんかな思ったら、違います・・・滝汗

階段

※明石城本丸、二の丸への階段・・・ようやく着きそうな感じで巽櫓の屋根が見えます笑い泣き

 

巽櫓

※明石城本丸巽櫓・・・階段を登り切ったら見えますので、もう着いたんかなと錯覚しますが、着くのは二の丸で、右を向くと目の前には二の丸櫓門跡があります(写真撮り忘れました)チーン

 

道中は、普通の大きく広い階段が続き、僕はヒイヒイ言いましたが、比較的登りやすい階段ですニヒヒ

 

しかし、階段は直角に折れ曲がっているところもあり、周りは、今は石垣しかありませんが、往時は門、土塀、二重櫓などが立ち並び、容易に人を寄せ付けない雰囲気でしたゲッソリ

 

 

 

  ③明石城の歴史〜歴代藩主について

 

 

「初代明石城主・藩主小笠原忠真」とは、どのような大名・武将なのか、簡単に説明させて頂きます。

 

 

忠真は、信濃の守護大名「小笠原氏」出身で、鎌倉時代から信濃守護を務めていた「甲斐源氏」の名門です。

 

 

忠真の曽祖父長時の代で、甲斐の戦国大名武田信玄の侵攻により、大名家としての「小笠原氏」は一旦滅亡、曽祖父長時、祖父貞慶は、諸国を放浪します。

 

 

曽祖父長時、祖父貞慶は、「旧領復帰」をあきらめず、諸国を転々とするうちに長時は亡くなりました。


その後、武田家が滅亡、貞慶は徳川家康を頼ります。


祖父貞慶は信濃に戻り、「天正壬午の乱」を経て、深志城主(松本城)となり、大名に「復帰」します。

 

 

父の秀政は、家康の信頼も厚く、家康は自身の孫、登久姫(長男信康の娘)を妻に娶らせています。

 

 

その後秀政は、下総古河3万石から関ヶ原後、故郷の地信濃飯田5万石→信濃松本8万石となり、「徳川有力譜代大名」に出世しました。

 

 

忠真は、秀政の次男で、母は登久姫です。

 

よって、家康にとっては、忠真は外「曾孫」にあたります。

 

 

「大坂の陣」で父秀政、兄忠脩が討ち死にし、次男の忠真が家督を継ぎました。

 

忠真の正室は、兄忠脩の正室亀姫です(ということは、兄貴の奥さん、つまり義理の姉を引き続き弟が正室に迎えたということです)。


戦国期や江戸期には、上記のような事例は、珍しいものでなく、当時、正室との婚姻は、「政略結婚」ですので、例えば跡継ぎの正室に迎えたのは良いが、跡継ぎが戦死あるいは病死したりして、子供がいないまま「未亡人」になった正室は、そのまま次の跡継ぎの正室になることは、実際よくあったことなのです。

 

 

亀姫は、姫路藩主本多忠政の次女で、母は家康の孫熊姫(長男信康の次女)です。

 

ということは、少々ややこしいですが、忠真と亀姫の母は、「姉妹」であり、両者は母方のいとこにあたります。

 

 

家康にとっても忠真夫妻は、「曾孫」にあたり、譜代大名の中でも、ほぼ「一門衆」に近い存在でした。

 

 

15年後の1632年(寛永9年)、忠真は、15万石に加増され、豊前小倉藩に移封されています。

 

 

その後の明石藩主は、譜代大名戸田松平家(7万石、6年間)、大久保忠職(7万石、10年間)、藤井松平家(7万石、30年間)と比較的、短い期間ながらも徳川家と縁戚関係にあった大名家が務めています。

 

藤井松平家のあと、明石藩主となった本多政利は、「不行状」により、わずか3年で陸奥へ減封されてしまいます。

 

 

その後、明石藩主として越前大野から松平直明が6万石にて入封します。

 

 

松平直明は、家康次男結城秀康(親藩大名家越前松平家)の六男直良の三男で「家康の曾孫」にあたり、越前松平家の分家「明石松平家」を興しました。

 

 

明石松平家は、のち6万石→8万石→10万石となり、「親藩大名家」として、明石藩主を「189年」務めることになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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